つめたい水
朝目覚めたらコップ一杯の水を飲みなさい、そこから1日を始めなさい、というのは父の教えのようなもので、それは結局のところは父の母、すなわち私の祖母の教えなのだった。
毎朝きちんと水を飲んで、体内に新しくきれいな血液をめぐらせなさい、と。
私は昔から、こうした血液にまつわるイメージがかなり好きで、たとえば母は玉ねぎをつかった料理を出すたびに必ず「玉ねぎを食べたら血液がさらさらになるよ」と言ったものだけど、私はその言葉を聞くたびに、玉ねぎを食べたあとさらさらになり、小川のように流れている自分の体内の血のことを思った。
この夏に正座ばかりしていて足が痛くてたまらなかったときにも、足が痛いのはどうしたらいいですか、とみんなで先生に質問したら、先生は「我慢して正座してたら、足に酸素を巡らせようとして毛細血管が増えるの。だから足を崩さないで我慢しなさい。我慢しないと毛細血管がなかなかできなくて、いつまで経っても痺れたままだよ」と言った。
それから私は自分が正座をしている間、ああ、いま私のふくらはぎには繊細な血管がたくさん張り巡らされているんだな、と思った。
土をえぐって新たな道を作りながら流れていく水のように、血の通う通路がさらに複雑に出来上がっていくさまを頭の中で想像した。
そしてそういう想像はいつも私にとって効果的に働いてくれた。
血がさらさらになるならと、私は小さいときから生の玉ねぎのスライスも好き嫌いせずに食べたし、血管ができてさえくれれば足が痺れにくくなるだろうと、長時間の正座も堪えた。
冬の葉を落とした木々の梢にも、私は血管を見てしまう。
裸になってしまった木々が四方八方に伸ばしている枝は、さびしくて、複雑で、まるでいきものの体内にある血管のように見えるのだ。本当の血管など見たこともないのに。
だからか、冬の木を見上げていると妙な気持ちになる。もしかしたら、あの木と同じ形をした血管が、私の中にもあるのではないかと思う。
太い木の幹、そこから分かれて細くなり、数が増えていく枝。土に隠れて見えないけれど、それらを支えている根っこ。
木の根とは、土の上に出ている木の大きさと同じくらいの規模を持っていることもあると母に聞いたことがある。だから私の想像する木の根はいつでも、地面を一本の線としたとき、その上部と線対象の形をしている。
空に向かって伸びている枝を見ながら、毛細血管はこんな感じなのかなあ、と思う。木と血管では流れているものはちがうけど、形がよく似ているんだもの。
血液というのは、体内をとめどなく流れ続けていなくてはならないものだ。血というのは、基本的には怪我をしたり病気をしたりしないと血管の外側には出てこない。
だから自分や誰かの身体から血が出ているということは、その肉体のどこかが傷ついていることと同義だ。
そのために血を禍々しいイメージで捉えたり、痛みとともに呼び起こしたりすることもあるだろう。
だけど血液は身体中に新鮮な酸素を運んだり、いらないものを持って帰って排出したりする。そういう意味で血というものは非常に神聖だし、ちょっとおそろしいと同時に美しいものだと私は思う。
父、そして父を育てた祖母の教えを忠実に守り、私は毎朝必ずコップ一杯の水を飲む。そのつめたい水を身体中に行き渡らせるであろう、私自身の血液のことを思いながら。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?