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映画『みなさん、さようなら。』を観て

主人公は歴史の先生

エッチな話で一杯だが卑猥ではない、ドゥニ・アルカン監督のカナダ映画。

主人公は大学の歴史の先生である。
老いて、重篤患者となって、入院中。
映画は、この主人公がどのように死と対峙するのかを、彼と証券マンの息子との関係を中心に語っていく。

脚本の巧みさがきわだつ映画である。うまいなあと幾度も感心した。

実際、主人公を歴史家として設定したところなんて、ホントうまいと思う。
すごい設定だ。
宗教象徴学者ならば修道院を探検し(『ダヴィンチ・コード』みたいに)、考古学者ならば遺跡を発掘し(『インデイ・ジョーンズ』みたいに)、派手に冒険できる。
しかし歴史家となると、事情は違う。
書斎で本にうずもれ、古文書館の史料の埃で指先を黒く汚すのが、歴史家である。
絵にならない。

そんな歴史家を主人公にした。
なぜだろう。
次の二点が理由ではなかろうか。


歴史家 -①モラルから自由になれるひと

主人公はただの歴史の教師ではない。左翼である。

21世紀の日本では、「左翼」と言うと、『朝日新聞』のような、頭がかたくて説教臭いイメージがある。しかしあのイメージを一般化してはいけない。

本来、左翼=革新派は伝統的保守的モラルからの解放を唱えるものである。
ところで欧米では伝統的保守的モラルはキリスト教によって代表される。
それゆえ左翼は非宗教を唱導する。
しかしながら宗教が死を扱うのである。
かくして主人公は、宗教に頼らない死を模索する。

さて死を問うとは、生を問うことである。
そこで左翼の生き方が大事になる。
主人公は人生において快楽を重視し、生と性を謳歌した。
いろいろとおいしいものを飲み食いし、伝統的保守的モラルを蔑視してさまざまな女性と自由恋愛を楽しんだ。
主人公の昔の仲間たちは、男友達だけでなく女友達も、みんな、性に奔放な発展家である。同性愛者だっている。

もちろん快楽とは個人的なものであるがゆえに、孤独をひそませている。映画はそのことも丁寧に描く。快楽主義を糾弾するためではない。快楽主義と誠実に向き合うためである。


おそらく脚本家はこのようなモラルから解放された人物をリアルに描くために、主人公を歴史家に設定した。

というのも歴史学はすべてを相対化する。
現在のモラルは現在のものに過ぎず、過去にはまた別のモラルがあったこと、未来にはまた別のモラルがあるであろうことを、歴史家はふつうに知っている。
だから歴史家は、自然に、気負いなく、現在のモラルに縛られないでいることができる。しなやかにモラルを無視できる。
だから主人公が歴史家に設定されたのではなかろうか。

もちろん現実の歴史家の名誉のために言っておけば、この映画の主人公ほどまでに破天荒な歴史家を、僕は知らない。少なくとも僕の周囲にいらっしゃる歴史家は、みなさん(僕自身も含めて)紳士淑女である。


歴史家 -②戦争・革命・人類について語れるひと

しかし主人公はただの色魔ではない。
彼はナチスの蛮行、ソ連の強制収容所、中国の文化大革命に言及する。

それがまたある種のリアリティと奥行きをこの映画に与えている。
たしかに快楽を享受するだけの左翼なんて左翼ではない。
戦争や革命の歴史を語らずしてどうするというのだ。

かくしてこの映画は主人公を歴史家としたことで、個人の性的快楽の話から、人類の恐怖の歴史へと、話題を無理なく移行させ、日常生活の細々としたエピソードと人類史を巧みにひとつの画面におさめ、人間というものの多面性を描写することに成功した、と言えよう。


ひろがる余韻

またこの映画では、様々な人物がとても丁寧に描かれている。

例えば、病室の主人公に、学生が三人、見舞いに来る。
主人公は感動する。
しかし実を言えば、主人公の息子が学生に、見舞いに来ればお金をあげると約束していたのだ。
ところが三人の学生(白人男子・白人女子・黒人男子)のうち、女子学生だけがお金をいらないと拒む。
カメラはしばらくのあいだ病院の廊下を歩く女子学生を撮る。
そしてこの女子学生はもはや映画には出てこない。
しかし彼女を一瞬でも登場させたことで、映画は映画の外部にあるひろがりを観る者に想像させると同時に、必ずしもすべての若者が冷たい拝金主義者ではないことを示したのである。

あるいは主人公の女友達の娘である麻薬患者。
主人公の息子に依頼され、彼女は主人公に付き添いヘロインを打つ。
この経験が彼女にささやかな変化を起こす。
彼女は麻薬中毒を治す薬を飲み始める。
とはいえ映画は、彼女が完治したかどうかを明かさない。
映画の後、観客は、もしも物語が続いたら彼女はどうなるだろうと想像し、余韻を楽しめる。

そう。この映画は観る者の想像力に訴え、しみじみとした余韻をかもしだす。
そこが実にうまいのだ。未見の方、是非お楽しみ下さい。



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