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ナポレオン再考 -フランスのラジオ番組より

リドリー・スコット監督の映画『ナポレオン』が封切られたことで、フランスではナポレオンの評価をめぐって議論が白熱している。


〈歴史モノ〉から学ぶ

歴史に題材を取った、いわゆる〈歴史モノ〉の映画・小説・漫画・アニメから、議論が生じるのは、たいへん良いことである。
それを機に、知らなかった歴史的事実を知り、歴史認識について学ぶことができれば、それにこしたことはない。
もちろん〈歴史モノ〉が「エンターテイメントとして出来が良いか否か」という判断基準は大事だろうが、それだけに議論を矮小化してしまうのは、〈歴史モノ〉の可能性のために必ずしも有益とは言えなかろう。

さて私が〈歴史モノ〉のエンターテイメント製作者に求めたいのは、瑣末な時代考証ではない。
むしろなぜ、歴史を利用するのか、なぜ、この時代背景、この歴史上の人物を選んだのかという必然性の提示である。

例えば、以前、教え子から聞いたところによると、「織田信長は実は女であった」という設定の漫画があるらしい。そこまで事実を歪曲したければ、いっそ、そもそも最初から、〈歴史モノ〉としてではなく、ファンタジーとして描けばよいのに、と思う。なぜ「織田信長」という固有名詞を利用しようとするのか。作者自身の想像力で、実在しない人物を、主人公としてゼロから創造したほうがよいではないか。

ところで、〈歴史モノ〉という表現手法を取る必然性を説明しようとすれば、当然のことながら、エンターテイメント製作者の歴史観ないし歴史認識が問われよう。そしてそのとき、歴史学者の発言が期待される。

フランスでの議論

興味深かったのは、あるラジオ番組での議論であった。

議論は映画『ナポレオン』についてというよりは、ナポレオンへの評価をめぐっておこなわれたが、特に私が紹介したい論点は、3つある。

①奴隷制の復活

第1に、フランス革命が廃止した奴隷制を、ナポレオンが復活した点。
基本的人権を無視したナポレオンを、こんにちのフランスのシンボルとみなしてよいのかという問題が、ここから生じる。
国粋主義の小説家は、ナポレオンは自らの意思に反して奴隷制の再設を余儀なくされたのだと苦しい弁解をしているが、如何なものか。

②「偉業」

第2に、ナポレオンの「偉業」の評価に関して。
司会者が、ジスカールデスタンからマクロンまで、過去のフランスの大統領が50年間でできたことに比べ、ナポレオンはたった15年間で実に多くの重要な制度を創設した、これは「偉業」ではないのか、と問う。つまり対外政策では戦争ばかりだったが、内政は評価できるのではないかというわけだ。
この問いに対して、フレドリック・レジョン(Frédéric Régent)は、ナポレオンの「偉業」は権威主義的独裁体制のおかげだと説明する。

実際、こんにち、日本人は中国の急成長を目のあたりにしているわけだが、それはまさに権威主義的独裁体制のおかげであって、習近平が「天才」だからではない。

国粋主義の小説家は、ナポレオンこそが現在のフランス共和国の基礎をつくったのだと唱えるが、この主張には罠がある。私見によれば、たしかにナポレオンはこんにちの「フランス中央集権国家」の基礎をつくったと言えなくもない。しかしそれは決して「フランス共和国」の基礎ではない。ナポレオンが創設した諸制度は、彼の死後200年、彼とは政治的立場が反対の「共和派」によって「運用」されていくなかで、共和国の制度となったのだ。
 

③プラグマティズム

第3に、「ナポレオンはエジプト遠征のさいにイスラム教に改宗した」という説について。
フレドリック・レジョンは、この説を明確に否定したうえで、しかしたしかにナポレオンはイスラム教徒におもねる〈人気取り〉政策をしたと、ナポレオンのプラグマティズムを指摘する。

実際、「支配のためなら、利用できるものは何でも利用する」、そんなプラグマティズムを、私もナポレオンからは感じる。彼にとってカトリックもイスラムもたいして重要ではなかった。重要なのは「使えるか否か」だった。
たとえ「その場かぎり」だろうが、イデオロギーに関係なく、ダブルスタンダードだろうが何だろうが、支配のためなら何でもやる。彼のそのような「ずるい」側面にスポットライトをあてることは、こんにちの政治を考えるうえでも示唆に富むだろう。

蛇足

さて最後に私がオススメするナポレオン映画をあげておく。
彼の「ずるさ」がうまく表現できているし、エンターテイメントとしても素直に笑って楽しめる。


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