ミシェル・ウエルベック『地図と領土』を読んで
仏文学者ではないから、優れた書評はできない。ただ気になった点をノートしておく。
現代の孤独へのスタンス
おそらくウエルベックの小説『地図と領土』のテーマは、現代人の孤独だ。
誰もが独房にうずくまる、パノプティコンと化した、現代がテーマだ。
フーコーがそれに警鐘を鳴らしてから、既に半世紀が経った。
時代はひさしく寂しい。みんなむなしく孤独だ。
そんな孤独な人々をウエルベックは膨大な情報から浮かび上がらせる。
やれ何区の、どこそこ通りの、どんなカフェでの、ひとつの仕草、そういったものの積み重ねから、静かに丁寧に、孤独を表現する。
リアリティにこだわることで、小説を現実の鏡にしているのだろう。
興味深いことに、ウエルベックは孤独を「冷笑的に」受け入れる。
この「冷笑的に」というところがポイントだ。
なぜなら諦めているから。あらがってどうなる。
それに悪いことばかりじゃあない。
実際、主人公ジェドはひとりでテレビを観て、ひとりでスーパーマーケットを歩くのが好きだ。
しかしジェドはそんな現代の、必ずしもすべてを肯定しない。
ジェドは、たとえ時代遅れと言われても、自分の描く絵画に「意味」が在ると思う。
その一方で、作中人物のひとり、警視ジャスランは、
かくしてウエルベックは、孤独に(無意味に)生きることに疑問を抱き、19世紀的な友愛に満ちた(意味ある)世界を求めながらも、最後には寂しい倦怠感にたどりつく現代人を見事に描きだした。
母と売春婦という、フランスの大地
主人公ジェドの晩年。時は2040年代、場所はフランスの田舎。
しかし田舎と言っても、
実際、都会からやってきた起業家たちの手によって、古い職業が今日の嗜好に合ったかたちでよみがえる。例えばとっくに消えたはずの蹄鉄工がふたたび開業し、馬が森の小道での散歩の主役となる。
彼ら起業家たちは母なる大地を、観光客のために、エコロジーの包装紙にくるんで、再組織化したわけだ。そして彼らはそれを市場法則の知識にもとづき自覚的におこなったので、成功した。
しかしそれが意味するところは何であったか。
ウルベックはまさに冷笑的に書く。
観光客の国籍は、中国人、ロシア人と、変わる。しかしそれがどうしたというのだ。来る者は拒まず、去る者は追わず、である。
いずれにせよ、お客様をおもてなしする母なる大地は、一皮剥けば売春婦だ。
そして売春婦は、いつも、ただただ客が訪れるのを待つだけの、受動的な存在だ。べつに誰がお客様になっても構いはしない。
そして孤独と倦怠に生きる。
それこそがウエルベックが予想する、近未来のフランス人というわけだ。
ひとのふりみて、わがふり…
現在、日本は観光をウリにしているが、それは受動的なメンタリティーを国民のあいだに育てていないか。もっと能動的に攻めることや開拓することが評価されても良いのではないか。
来る者は拒まず、去る者は追わず。
かつて僕が勤めていたA女子短期大学でも、改組改革のさい、この言葉がスローガンのように使われた。しかしそれは学生を、かけがえのない愛弟子としてではなく、掃いて捨てるほどどこにでもいる匿名の消費者としてみなすことである。自分で自分を公衆便所とみなすことである。
売れれば良い、のではない。
ウエルベックも、そう思っている。
しかし現実に対峙したとき、彼は小説を書くことしかできない。
それゆえ彼は冷笑的になるのだ。
その冷たく静かな文体の裏側に、フィクションだとはいえ、自分を斬首させるほどの激しい憎悪を秘めながらも。
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