映画『落下の解剖学』を観て-必然としての曖昧さと必要としての決断
トニ-と映画館でフランス映画『落下の解剖学』を観た。
トニ-はこれまでの人生の悲喜交々をすべて糧として成長した、明るく健康的で包容力のある大人の女性だ。だから僕は彼女のそばにいるとそれだけで楽しい。
ひとつの事件、ひとりの人物の曖昧さ
映画『落下の解剖学』のテーマは曖昧な現実だ。
歴史学研究者として僕は、曖昧さは必然でなければならないと信じている。つまりできるかぎり緻密に徹底的に分析して、物事をクリアにしていき、それでもどうしても必然的に残る曖昧さは、曖昧さとして、そのままに受けとめるべきだと、考えている。
しかしこれはあくまでも研究者としての知的態度である。
日常生活、それじゃあやってられない。
台湾の位置づけにしても、中国のものなのか否か、曖昧戦略で戦争を避けることができるなら、そのほうが賢明であろうよ。
さて映画『落下の解剖学』は曖昧さをテーマとしている。
主人公の妻も夫も、曖昧で多面的な、つまり何処にでもいる普通の人間である。
しかし夫が死んだ。自殺か他殺か、裁判で決めなければならない。
ところがここから、人間の愚かさが発動される。自殺か他殺かに答えを出すことが、妻が暴力的な人間か温厚な人間かを決め、夫が弱い人間か強い人間かを決めることに繋がる。べつに「繋げる」必要など何処にも無いのに。単純化がおこなわれる。
ときには弱い人間が弱いからこそ嘘をつき、過剰防衛から攻撃的になることもあるだろうさ。しかしそういう複雑な現実はなかなか受け入れられない。混沌としたありのままの現実を、単純な線の上にのせようと、検察はする。
『落下の解剖学』は、ありのままの人間をありのままに表象しようとすると同時に、単純化のあやまちを告げる。
とりわけ圧巻なのは、夫の死の一日前に起きた夫婦喧嘩のシーンだ。
ゴダール『軽蔑』の男女の喧嘩のシーンに匹敵する、リアリティ(ありのままらしさ)であった。
決める必要
しかし曖昧にしておいては先に進めない人がいる。
たとえば『落下の解剖学』の場合、当事者夫婦の子供だ。
お父さんは自殺したのか、それともお母さんがお父さんを殺したのか。
曖昧にしておいては人生の次のステップに行けない。
たとえ疑いがちょっと残っても、どちらかに心を決めなければならない。
それは「信じるフリ」とは違う。敢えて「無理をしてでも決める」のだ。
ぎりぎりのところで、「敢えてどちらかといえば」と決めなくては、次の行動に移せない時がある。
実際「自由主義陣営か覇権国家陣営か」「護憲か改憲か」などはそういう問題だ。
もちろん『悪童日記』の主人公ならば、母親に有利な証言をして、後から母親をゆするのだろうが、『落下の解剖学』の子供はマトモなので、是非安心して観てほしい。
文学そして女性に求められるもの
『落下の解剖学』の妻は小説家である。彼女は終始、人間の多面性、曖昧さを説く。人間なのだし、喧嘩をするときだってある。売り言葉に買い言葉で強い言葉を発することもあるだろう。でもその点だけを切り取れば、真実からは遠ざかる。
これに比し、検察も、警察も、精神科医も、男たちは、みな、単純化をして、彼女をモンスターに仕立てようとする。検察官がはげていて、弁護士が長髪だったのも、男と女のメタファーを使いたかったのだろうか。
監督は女性らしい女性にこそ、そして真の文学にこそ、曖昧さを大切にする、包容力があるはずだと主張したかったのだろうか。
僕はここでジェンダー論を展開したいとは思わない。
しかしながら僕が個人的に知っているフェミニストの大半は、残念ながら包容力がまったく無い。敵と味方を短絡的に二分する、曖昧さを許容できない、攻撃的な方々だ。
他方、僕が個人的に知っている女性らしい女性たちは確かに包容力に満ちている。
映画を見た晩、僕はひさしぶりにぐっすり眠れた。
夢ではトニ-を含めて、幾人もの女性とキャッチボールをした。
大抵の夢では、夢の中でいま自分は夢の中にいると自覚できないものだが、その夜の夢は違った。
公園の白いベンチで、白いコールテンのズボンをはいた知人の女性が、僕に膝枕をしてくれた。しかし彼女はほんとうならば現在8ヶ月の妊婦のはずだ。ところが彼女のお腹は大きくない。そこで気づいたのだ、これは夢だと。
それでも、むしろ夢だからこそ良いのかもと、僕は彼女の膝のうえで熟睡したのでした。
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