見出し画像

お酒に飽きた話

からだ

40の頃までは、よくあちらこちらで飲んでいた。
なにを飲んでも愉快だったし、好奇心旺盛だった。
新しいもの、珍しいものを味わうのが、そしてそれを語るのが、楽しかった。
「日本酒を飲むときに仕込み水をチェイサーにすると絶妙だって、御存知?」
「サッサイアは従来のワインの概念を覆したよね。自然派をうたうならば、あの域まで達さないと…。」

でもいつの頃からだろうか、50になった頃からだろうか、お酒に飽きてきた。
そもそも、からだが、さほど、うけつけなくなってきた。
日本酒も二合ほど飲めば、もうじゅうぶん、みたいな。
昔は妹と二人で、一升、あけたものだが。

それに、かかりつけの女医さんの、悲しそうなそして困ったような顔をみるのがつらく感じられるようになってきた。
ちゃんとγGTPとか、気をつけなくちゃね。


こころ

なによりも、次から次へと、新奇なものを求めることに飽きてきた。

もちろん地方に行けば地酒をたしなむが、行ったときに限ってであって、わざわざ取り寄せはしない。やっぱり地酒はその地方の肴と一緒だからこそ、うまい。昨年の12月に訪れた福井の梵とセコガニのマリアージュはたまらなかったなあ。

そうだ!おそらくそこにヒントがある。
以前、青山のワインバーのソムリエさんが、「まずいワインなどありません。どういう料理と合わせるのかが大事なのです。私が合わせれば、たとえ安ワインでも最高になります」と、ある種の自負心とともにおっしゃっていたが、そのとおりだと思う。

どんな肴と一緒に、誰と一緒に、飲むか。
例えばパリに留学していた頃は、ワインとバゲットとチーズと、そしてパリジェンヌとのおしゃべりだけで、じゅうぶん楽しめた。ワインの銘柄など、なんでもよかった。

例えば昼間、自宅の庭で、ひとり、ワインだけを飲むことがある。
そのときも大事な「酒のアテ」は季節の風であり、草木の色つやである。
それといちばん合うワインを探す。春ならコレ、秋ならアレ、といったふうに。
BGMは鶯だったり、枯葉が地面を引っ掻く音だったり。

そういうふうにアレンジまでをトータルに考えたとき、あんまり新しく珍しいものに触手は伸びない。むしろ普段の生活をどれだけ大事にできるかが、鍵となる。

そもそも「いま、自分が好きなもの」が失われないことに、気を配るようになる。
たしかにあの店もつぶれ、この店もつぶれた。
季節の風までもが地球温暖化で変わってしまった。
だから「いま、自分が好きなもの」を大切にしっかり抱きしめたい、そして記憶したいと思う。
そういえば私のかつての勤め先も、商業主義の導入で、ずいぶん変わってしまった。


政治からの逃避

しばしば言われることだが、革新と保守の意味合いも大きく変わって、イメージが混乱している。それに伴ってノンポリと言えば、かつては、政治にNOをつきつけて、非政治的な趣味の領域を開拓する挑戦者だったはずなのだが、その意味合いを失いつつある。
実際、秋刀魚の価格も、牛肉の輸入も、のどぐろの大衆化も、広義での政治がかかわっている。
もしも食だけでなく、ファッションやエンタメなど、あらゆる趣味が政治のテーマになりうるならば、また逆に、政治とは趣味の問題に過ぎないということになってしまう。
逃げ場はないのだろうか。

そんなことを考えながら、先日、滝川クリステル似の女友達と奥多摩の酒蔵を訪れた。
木漏れ日、紅葉、澄んだ川、そして唎酒。
凰という名の酒を味わい、おぼろ豆腐を頂戴して、清酒づけ炙り穴子を土産に買った。酒屋のマークの蟹は沢蟹だと、教わった。
我が家に帰って、ブリの粕漬をつくって、彼女と一緒に食べた。ほめられた。嬉しかった。
すべて思い出づくりのためである。


魔法の煙のなかから立ち現れる思い出は、僕のふるさと。
年末ぐらい、休むのも、いいだろう。
たまには自分にやさしく。

この記事が参加している募集

#ご当地グルメ

15,924件

#おいしいお店

17,609件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?