教師と学生の会食 -おいしいはたのしい
燻製チーズ
先日、卒業生(現アラサー女子)が我が家に来て、燻製をつくってくれた。
彼女のために買っておいたグレンモ―レンジをのみかわしながら、できたてとろとろ燻製チーズに舌鼓をうち、いろいろな話をした。
僕は昔を思い出した。
リモンチェッロ
某私立大学の経済学部で教鞭をとっていたころのことである。
教師になりたてだった僕は、学生諸君といまいち意思の疎通がうまくとれず、悪戦苦闘していた。
そんなとき、とある教員同士の飲み会の席で、理事の方から「どうぞ学生と一緒に酒を飲んでやってください」と言われた。
素直な僕はさっそく幾人かのゼミ生とイタリアレストランに出かけた。
注文はすべて僕がした。
あさりの白ワイン蒸しが出たときだった。
学生らが「うまい!」と、はしゃぎだした。
「こんな、うまいの、はじめて!」
「先生、これ、パンにつけて食べてもいいですか」と、大きな声。
気を利かせたウエイトレスさんが、パンをもってきてくださる。
食後酒にはリモンチェッロを注文した。
「うわあ、なに、これ。舌がしびれる!燃える!」
学生らがさわぐ。
実に楽しそうである。
僕はとにかくうれしかった。
そして僕がよろこんでいるのを、学生もおそらく感じ取った。
そう、先生というものは、学生が新しいものを知るとき、大きなよろこびを感じるのだ。
そのことを、僕も、学生も、学んだ。
その後、ゼミは円滑に進むようになった。
学生は、試験で高い点数を取ることよりもなによりも、新しいことを学ぶことを先生は期待していると知り、自発的に勉強するようになった。
会食の消失
ところが最近の大学からは、教師と学生の会食が消えた。
三つの要因が重なった。
①
教師と一緒に食事などしたくないのに、食事をしないと減点されるのではないかとおびえる学生から、「私は学校に勉強をしに来ているのであって、先生と食事をしに来ているのではありません」というクレームが出た。
もちろんこの種の学生は「勉強」の意味を極めて狭く理解しているのである。
まあ、学生は幼いのだから、そして幼いからこそ学生なのだから、視野が狭いのは当然である。
問題は、学生の視野をひろげるのが仕事のはずの大学が、この種のクレームに、「渡りに船」とばかりに「のった」ところにある。
②
大学執行部は、会食中に学生同士あるいは学生-教師間で何らかのトラブルが発生する「可能性」に注目した。
そして、たとえトラブルが発生したとしても、それを適宜に解決するのが人間の知恵だと考えるのではなく、
むしろ、トラブルが発生する「可能性」を未然に排除しようとした。
かくして危機管理の観点から、学生と教師との会食は禁止された。
③
大学の教師に関して言えば、一方で、学生との会食を楽しんでいるひとたちもいたが、
他方で、自分とは生まれも育ちも大きく異なる学生と食事をするのを億劫だと感じているひとたちも少なからずいた。
後者のタイプの先生方は大学執行部の方針に反対しなかった。
かくして教師と学生の会食は消失し、
めんどうくさいことはなくなって、
みんな、安心安全らくちんになった。
たらこスパゲティ
残念なのは、教師と学生が相互の「人間としての側面」を知る機会が減少したことである。
お互いが、どんな生活をして、どんなことを考えて生きているのかを知る機会が減少したことである。
それが授業に、教育に、影響を及ぼさないはずがない。
めんどうくさいことを切り捨てて、安心安全な管理システムを追い求めた結果だから、仕方がないのかな?
思い返せば、僕は学生との会食をつうじて、いろいろなことを学んだ。
例えば、前述の燻製女子の御学友は、たらこスパゲティとはいかなるものなのかを僕に教えてくれた。僕は庶民階層の食文化を学び、感動した。
彼女は彼女で自分の普段の生活がひとに感動を与えることを知って、これまた感動しているようであった。
シャンパンは革命の香り
いずれにせよ、
会食をつうじて、ひととひととの交流がうまれ、そこから想定外の何か(ときには学びであったり、ときにはトラブルであったりする)が偶発的に生まれる可能性は、
それがまさに想定外で偶発的であるがゆえに革命的だと判断され、
だからこそ危機管理システムによる監視と抑圧の対象となった。
システムが提供する波も風もない人生をおくりたければ、独りでカップ麺でもすするのがよかろう。
システムに抗って革命を起こしたかったら、さあ、シャンパンをあけて、仲間たちと食事をしよう。
実際、1848年のフランス二月革命は宴会から始まった。
(もちろんウィルスには気をつけてね。死んじゃったら意味ないからね。)
イエスだって、弟子たちと一緒によく食べた。
水を葡萄酒に変える奇跡だってやってくれた。
彼は僕らの心に革命を起こしたかったのだろう。
彼は言っていた、
ー戒律(システム)はひとのためにあるのであって、ひとが戒律(システム)のためにあるのではない。
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