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なぜベトナムはシニカルなのか

シニカルであるとは、理想を持たないこと、つまり未来に思いをはせないこと、刹那的であることだ。かくして未来における理想の実現のために、現在、我慢して勉強する契機が失われていく。


ウクライナ戦争で、ロシアを支持する国々


例えばベトナムは、ウクライナに侵攻したロシアを、支持した。

それはウクライナの味方をするよりも、ロシアの味方をするほうが、物質的利益を享受できると計算したからである。
ロシアと同じ理想を一緒に追いかけるためではない。
そもそも現在のロシアの理想はユーラシア主義であって、ベトナムはロシアの理想と何の関係もない。
この点が旧ソ連とは違う。旧ソ連は世界の共産化(世界中の人々の独立と平等)という理想を掲げていた。

グローバル・サウス諸国は、ユーラシア主義を掲げるロシアと、世界における法(=人権宣言)の統治を理想とする欧米諸国とを、天秤にかける。そしてどちらに味方するほうが現在の自国にとって得かしらんと計算する。つまりグローバル・サウス諸国にとって、未来の理想の世界など、どうでもよいのだ。

ソンミ1968、そしてブチャ2022


ベトナムは、フランスの植民地主義者と、日本の全体主義者と、アメリカの帝国主義者によって侵略された経験がある。

それにもかかわらず、1968年3月にソンミで恐怖を経験したベトナム人は、2022年3月にブチャで同様の経験をしたウクライナ人に、共感と連帯の手を差し伸べることができていない。

世界市民としての意識よりも、ベトナムの国益を優先する意識のほうが高いのだろうか。
しかしベトナムの独立戦争における勝利は、ベトナム人の努力だけの結果ではない。またアメリカの若者をも含む、世界中の人々によるベトナム人への共感の盛り上がり、そして音楽、映画、デモ行進とメディア・ミックスの世界的反戦運動の結果でもあった。

それならばなおのこと、こんにち、ベトナムの人民はウクライナの人々に味方すべきではないのか。

ベトナム史のプロに質問しても、「ベトナムにとってアメリカは旧敵だ。そのアメリカが支えるウクライナを、ベトナムが支持しなければならない理由はない」と、国民国家史観に基づく説明しか出てこない。
国民国家が国家理性に基づいて国益を追求するのは当然だ。
しかし現在、疑問視すべきは、ベトナムの人民のシニカルな態度なのである。
いったいどうしてこんなふうになってしまったのだろう。

欧米の脱宗教化が原因か?


もちろん原因はひとつではないだろう。幾つもの原因があるだろう。ここで示すのは、あくまでも諸原因のひとつにすぎない。ただそれはあまりにも忘れられていると思われるものである。

すなわち私はその起源に、欧米の社会における脱宗教化(世俗化)があるのではないかと思う。

例えば20世紀初頭、フランスでは「誰が何を信じるのも自由だ」という原則が確認された。
カトリックの神を信じるのも、プロテスタントの神を信じるのも、ユダヤ教の神を信じるのも、あるいは共和政の理想(人権宣言)を信じるのも、何を信じるのも自由だという発想である。

その発想は「正しい」。
しかし「正しい」原則の隣には、それを自分に都合よく簒奪しようとする人々がいる。

20世紀初頭のフランスで「何を信じるのも自由だ」の原則が認められたとき、「何も信じないのも自由だ」と言い出した人々がいた。
彼らは未来を信じなかった。死後の世界を信じなかった。最後の審判があるのかないのか、自分の死後、この世はどうなるのか、そういったこと一切に関心を持たなかった。
そしてただただ現在、自分が楽しければ、それで良いと考えた。最小限の努力で最大限の快楽を導き出すこと、そのためには何をしても良い。他人に嘘をついても、他人を騙しても良い。まさに世界とは弱肉強食なのだ。それが彼らのモットーだった。

まさにそのようなヨーロッパのシニカルな文化が、アジア・アフリカにおいては植民地化をつうじて伝染したのではなかろうか。

そして日本


明治以降の日本も、西洋のシニカルな文化を習得したようである。
そこから「和魂洋才」という名の「面従腹背」も生まれた。ジャパニーズ・スマイルでもって、猿マネの鹿鳴館でもって、西洋列強を騙してサバイバルしようとした。
けれどもそのシニカルな生き方の裏には、ヤマトへの愛という理想があった。
とはいえ理想はヤマトへの愛がまた限界だったとも思われる。

しかし「戦後」の日本は、大きく方針を転換したはずである。
実際「平和憲法」の平和とは、世界平和を意味していたはずである。
ヤマトだけが平和ならば良いわけではないのだ。
21世紀、日本人は、世界市民として、立派にならなければならないのです。

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