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記憶は美化される:改めてママに感謝を

5月9日、母の日。
多くの家庭で母への感謝を伝えるだろうが、きっと、それだけじゃ足りない。もっともっと心の底から感謝を伝えた方がいいかもしれない。

我が家でも長女・次女と連絡を取り、カードの手配やらお花の手配を段取ったが、その感謝を伝えるイベントをしていることに酔いしれていないか?と自問自答してみる。

「自分もそこそこ子育てしたぜ」

そう思い込んでいるパパは私だけじゃないだろう。
冷静に振り返ってみる。よ~く昔を思い出してみる。

子どもと遊んだ記憶
食事を作ってあげた記憶
読み聞かせをして添い寝した記憶
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そこそこ子育てした記憶がよみがえってくる。
そこそこ。

そう。あくまでも「そこそこ」だ。

子どもが花束を買えるようになっていたり、自分よりも背丈を超えるサイズに成長していたりするのは、毎日毎日欠かすことなく彼らを育ててくれた妻のおかげ。

圧倒的に育児時間のボリュームが違う。もちろん、役割分担という考え方もあるが、それにしても、「時間がある時だけ」や「気が向いた時だけ」や「必要な時だけ」な育児とは比にならない。

特に、新生児の頃のママの大車輪の活躍を忘れてはいけない。妊娠という長期にわたり命をあずかる重責を担い、出産という痛みを乗り越える大役をこなし、その直後から授乳をはじめ、短時間睡眠の中ありとあらゆる育児と向き合ったママ。もうこれは比較して男性が勝てる試合ではない。

「育児」と「育児した気」は大きく違う

平日の朝と週末が主な私と子どもとのコミュニケーション時間だったこともあり、朝が強い私は早朝に起き、目玉焼きとベーコン、トースト、サラダ、ヨーグルト、バナナジュースを用意し、子どもを起こしていた時期があった。

深夜や早朝に帰宅しても、ショートスリーパーの私は普通に5時半や6時には起きられたので苦労ではなかった。そして、子ども達が喜んでくれたし、何よりも私自身が幸せだった。

そして、10年くらい前のある日、妻に「朝ごはんを作ったくらいで『育児した気』にならないでね」と、チクリと言われたことがある。

ドキっとした。

まさに「自分、なかなかやってるな」「育児してるぜ」と酔いしれている自分がいることに気づかされた。(私は妻のこういう鋭い牽制球や、小爆発に「ハッ」とさせられることが多い。舞い上がっていたり、横道にそれいていたりすると、その都度「お~い!大丈夫?」って肩をトントン叩くかのように引き戻してもらっている。このネタだけでnoteが書けるレベル)

美化された想い出も大事にしつつ・・・

すっかり脱線してしまったが、要するに、パパの考える(やっていると思っている)育児というのは「限定的」だったりするんじゃないか、ってこと。

パパ(自分)がやった過去の出来事は大抵「美化」される。特に子どもとの想い出は美化されやすい。きっと子育ても美化された想い出でいっぱいだろう。(それはそれで素敵だし、Well-beingだけど)

今日は母の日。
是非とも「母の日」をキッカケに、日頃/昔を振り返りつつ、改めてママの育児に感謝してみてはいかがだろうか?もしくは、自身を育ててくれたお母様へ電話して改めて感謝してみてもいいし、ついでにお父様に「オヤジも勘違いしてなかったか?」と問うのもアリかもしれない。

感謝すると自身のWell-beingレベルもアップです!

あああ、また1,000文字を超えてしまった。母の日に免じてお許しを。前回のnote「10歳旅・15歳旅・20歳旅のススメ」はビックリすることに5,000を超える方々に読んでいただけたようで感謝。引き続きnote頑張るので、また「スキ」と「フォロー」よろしくお願いします!