小倉ヒラク『オッス!食国 美味しいにっぽん』から考える焼酎文化

つい最近、日本の食文化の本質について考えさせられる、素晴らしい本と出合いました。
焼酎についての直接の記載はないものの、より大局的な視野から大きな刺激を受けたので、自分なりに考えたことを記録しておきます。

楽しげな表紙に騙されてはいけない

タイトルにある「食国」は「おすくに」と読む古語で、「召し上がりなされるものを作る国」という意味だそうです。
この「食す(おす)」が、後に「治す(おす)」という言葉に発展したといいます。
つまり、かつて日本では、「食す=食べてもらう」ことは「治す=統治する」ことと同義だったというのです。
小倉氏は、この「食す=治す」のシンボルとして、「神饌」(神の食事として捧げる供物)に着目し、ここを起点に、日本の食文化の系譜を明らかにしていきます。

具体的には、次のようなお馴染みの食材・料理を取り上げ、人々の生活、経済、宗教、政治などの多様な観点から、太古の昔から今日に至るまでの変遷が丁寧に解説されています。

  • 第1章 米と麹

  • 第2章 塩と醤油

  • 第3章 味噌

  • 第4章 だし

  • 第5章 お茶と懐石

  • 第6章 おすし

  • 第7章 栗・豆・麦・芋

  • 第8章 獣と鯨

どの章も、膨大な文献資料探索とフィールドワークの成果に裏付けされた知見が詰まっており、私たちの日々の食生活の背景・基盤について、目から鱗の楽しい知識を得ることができます。

…が、実はこの本、それだけに止まりません。
ポップな表紙とタイトル、親しみやすい語り口、そして楽しい知識は、すべて「世を忍ぶ仮の姿」と言っても過言ではありません。

「オモテ」と「ウラ」の食文化

小倉氏は、日本の食文化を広く・深く掘り下げていくと、一般的に認識されている「米と魚」を主食とする「オモテ」の系譜に加えて、これとは別の「芋と獣肉」を主食とする「ウラ」の系譜が見えてくると言います。

「オモテの食国」は、米をシンボルとする「五穀豊穣」の世界観で成り立っている。その象徴がアマテラス(稲の女神)とオオゲツヒメ(五穀の母)だ。 しかし芋を(物理的にも文化的にも)掘り下げていくと、ハイヌウェレを女神とする「ウラの食国」が出てきてしまう。
(中略)
オモテの食国は米と魚を主食とし、ウラの食国は芋と獣肉を主食とすることになる。日本正史には残っていないウラの食国、そこでは焼畑で芋や大根を育て、イノシシや鳥などを獲って肉を食べていた。

『オッス!食国 おいしいニッポン』p206~207

ここで、前出の目次を振りると、

  • 「第1章 米と麹」から「第6章 おすし」 →「オモテ」

  • 「第7章 栗・豆・麦・芋」と「第8章 獣と鯨」 →「ウラ」

となっていることが分かります。

さらに、次のように説きます。
日本の政治統合を目指した天皇は、米(稲作)をその原理・システムとして利用し、その結果として「オモテの食国」が敷衍していった
そして、そのプロセスで肉食が規制されたことにより、かつて日本各地に存在した肉食集団は、権力の中枢から遠ざけられ、「ウラの食国」として細々と残存するしかなかった

とても刺激的な論だと感じます。
そして、説得力もあります。
詳細を知りたい方は、ぜひ本を買って読んでみてください。

焼酎は「オモテ/ウラ」のどっち?

さて、ようやく本題です。
ここで考えてみたいと思います。
本noteの主題である「焼酎」は、上記の「オモテ/ウラ」の食文化の系譜において、どのような立ち位置を占めるのでしょうか?

『オッス!食国』で取り上げられている食材・料理のなかで、焼酎の素材として古くから使用されてきたものは、次の二つです。

  • 第1章 米と麹

  • 第7章 粟・豆・麦・芋

まず、「米と麹」と焼酎史の関わりを見て行きましょう。

現在、米焼酎は言うまでもなく、他の焼酎においても「米麹」が広く利用されていますが、かつて米・米麹を使った焼酎はマイノリティでした
なぜなら、米は主食であるだけではなく、主たる酒(清酒・どぶろく)の原料、味噌・醤油・漬物に使う米麹の原料、さらには貢納物でもあったため、焼酎の原料に振り向ける余裕がなかったのです(熊本県球磨地方など一部例外はあります)。

一方、米に由来するもう一つの焼酎として、「(俺たちの)粕取焼酎」があります、
こちらは、清酒醸造に伴い発生する酒粕のリサイクルに役立ち、また、蒸留粕が肥料として有用であったことから、稲作・清酒醸造エコシステムの構成要素となり、江戸時代から昭和初期にかけて広く製造されてきました。

以上から、焼酎は「オモテの食文化」(米と魚の食文化)に目立つかたちで入り込むことは出来なかったものの、粕取焼酎のみが「オモテ食国」のバックヤード」に居場所を得たと言えます。

続いて、「粟・豆・麦・芋」と焼酎史の関わりを見ていきましょう。

これらのうち、「麦(大麦)」と「芋(サツマイモ)」は、焼酎の原料として江戸時代から広く利用されてきました。

「麦(大麦)」は、平地においては、中世から温暖な西日本を中心に、稲作の裏作(二毛作の冬作)として栽培されてきました。
この「平地ケース」では、米は貢納物及び酒造原料、大麦は主食(麦飯)であり、江戸時代以前は焼酎の原料に振り向けられなかったようです。
一方、寒さや乾燥に強く、やせ地でも育つ大麦は、古くから山間部や島嶼部でも栽培されてきました。
この「山地・島嶼部ケース」では、わずかに獲れる米は専ら貢納物、大麦は主食(麦飯)及び焼酎原料とされました。
(以上の詳細は、過去記事「麦焼酎の源流を探索する」を参照)

「芋(サツマイモ)」は、江戸時代に中国からもたらされ、薩摩藩(鹿児島県)を中心に、庶民の主食かつ焼酎原料として定着していきました
薩摩藩の領地は、米の栽培に適さない火山灰の台地(シラス台地)が多いため、独自の食文化が形成されたのです。
酒に関していえば、江戸時代後期の薩摩藩では、上級武士は「上酒(かんしゅ=上方から移入した清酒)、中下級武士は「地酒(じしゅ=米を原料とし木灰を混ぜて作った甘口の醸造酒)、庶民は芋焼酎を飲んでいたそうです。
このようなサツマイモの食文化は、薩摩から、同じく米づくりに適さない島嶼(八丈島、青ヶ島、対馬など)へと伝わりました

以上から、麦・芋の焼酎は、山地・島嶼の「ウラの食国」のなかに、しっかりと根を下ろしたと言えます

最後に、要点を整理します。

  • 粕取焼酎は、平地を中心とする「オモテの食国」のバックヤードに居場所を得た。

  • 麦焼酎・芋焼酎は、山地・島嶼など「ウラの食国」にしっかりと根を下ろした。

これまでの焼酎史の探求のなかで、何となく、「粕取焼酎」と「その他の焼酎」の間には、原料・製法の違いだけではなく、もっと本質的な文化レベルの違いがありそうだ…と考えていました。
『オッス!食国』を読んだお蔭で、この部分が少しクリアになってきたような気がします。

焼酎史への旅で出会った先人たち

そして、もう一つの本題です。
『オッス!食国』の全体的な基調として、「民俗学」への敬意と、その意義や素晴らしさを現代に伝えようという意欲が感じられます。
「民俗学」とは、権力者の歴史たる「正史」に描かれてこなかった庶民、漂泊民、辺境民、被差別民などを対象とし、彼/彼女らの暮らし・生き様などを調査・研究する学問です。
「食国」探求の出発点は、民俗学者・折口信夫による「神饌」の論考ですし、その後も柳田国男、宮本常一など、さらには関連分野の研究者である網野善彦、中尾佐助、佐々木高明などの業績を踏まえ、論考が展開されています。

私も、若い頃はこれら偉大な先人たちの著作に親しんでいたものの、長らく遠ざかっており、ほぼ内容を忘れていました。
ところが、数年前にこの焼酎史探訪を開始してみると、こうした先人たちの姿が不意に立ち上がり、本棚を漁ってまた読み直すはめになっているのです

たとえば、「山の民」を探求した民俗学の巨人・宮本常一
若い頃、初めて読んだ宮本の著書『民俗学への旅」は、対馬の集落で延々と続く寄合の記録から始まります。
山と離島を歩きまくった足跡は、雑穀焼酎の系譜と重なるものがあります。
また、名著『塩の道』の記述は、交通・交易・文化の伝播がどのように行われるのか、という本質的な学びがあります。

そして、「海の民」を探求した歴史学の巨人・網野善彦
これまた若い頃、『海民と日本社会』を読んで感動したもので、また読み直さねば…と思っているところです。
焼酎との関連でいえば、これはあくまで個人的な説ですが、蒸留技術を大陸から日本に伝えたのは、「海の民」たる「倭寇」である可能性が高いと考えており、網野の影響を受けているであろう研究者の本を読んでいます。

さらに、汎アジアの大局的視点から日本文化に迫ろうという「照葉樹林文化論」の大家・中尾佐助と佐々木高明
照葉樹林文化論とは、日本の生活文化の多くが、中国雲南省周辺を源流としおり、そこから長江流域・台湾を経て日本南西部の照葉樹林地域に伝播したという仮説です。
焼酎の源流をたどるうちに、日本の伝統的蒸留器(カブト釜蒸留器)の分布及が、この照葉樹林文化論と重なることに気付きました。
もちろん、焼酎がこれらより遥か後に誕生・伝播したことは理解していますが、大陸へと視野を広げる契機を提供してくれたことを感謝しています。

ちょうどこのような関心が再興していたので、『オッス!食国」を読みながら、何だか偉大な先人の背中を追う小倉氏の、さらに後方をとぼとぼ歩いている気分になりました。

もちろん、自分の探求は広がり、深さともまだまだで、小倉氏の圧倒的な努力には及ぶべくもありません。
それでも、何だか勇気付けられた気分になったので、これからも先人に学びつつ、出来ることを地道にやっていきたいと思います。

という訳で、今後の糧となる充実の読書体験でした。

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