事実と真実
昨日、ネットでこんな本の紹介を見つけて、即購入。
『文豪の悪態』
例えば、中原中也が太宰治と酒を飲んでいた時に言われた言葉が
「何だ、おめえは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。」
太宰が後に檀一夫に中也のことを評して言ったのが
「蛞蝓みたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物ではない。」
この二人は特に有名人だけど、それ以外にもいろんな文豪(文学者)たちの悪態が収められていて読み甲斐がある本です。
こういう裏話的なものを知るのはとても面白くて好き。
でも、だからといって、その作家の個人的なことを知って作品がわかったような気になるのは好きじゃない。まあ、だから文学部に入ったのに「研究」ってのがイマイチ肌に合わなくて落ちこぼれてたわけなんだけど。
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夏目漱石の研究者の先生のゼミに出入りしてたんだけど、そして、その先生は「作品」として夏目漱石の文学を研究していた人だと思うんだけど、その絡みでいろんな「夏目漱石研究」の資料なんかを見てると、「この作品に出てきた蕎麦屋はおそらく〇〇町の△△という店だろう」「作中では主人公はてんぷら蕎麦を食べているが、漱石は胃が弱かったので、本当はかけ蕎麦を食べていたに違いない」とか、そんなことばっかり出てくる。なんかね、どーでもいいじゃん、そんなこと、って思ってしまって。
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1997年に、歌人の俵万智が第三歌集『チョコレート革命』を上梓した。あの『サラダ記念日』で一世を風靡した歌人。そして、サラダ記念日はかわいい恋の歌が多かったのに対して、『チョコレート革命』は不倫を思わせるような歌が多かった。
焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き
マスコミは色めき立って出版記念の記者会見に殺到した。口々に聞くのは、「あの短歌は本当のことなんですか?」
俵万智の答えは、
「本当のことかどうかはわかりません。ただ、『真実』です。」
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「事実と真実は違う」「むしろ違って当たりまえ」と、私の短歌の師がよく言っておられたのを思い出す。「事実なんか誰も見たくないわよ、気持ち悪い。われわれは『創作』してるの。真実を。」と。
作品の前で作家を脱がしたところで、作品がわかるとは思えない。もちろん多少は参考にするにしても、作品というのは作家が心を込めて作り上げた虚構なのだから、その虚構の世界にあそばないと失礼だと思うのだ。
俵万智さんは、そのあたり開けっぴろげに教えてくれるので、こういう場面でも引きやすいのだけど、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
この短歌の「事実」は、「サラダ」でもなかったし「七月六日」でもなかった、と俵万智は言っている。それを知って「なんだ、嘘なの?」と怒っていた人がいたのも知っている。あほかと思う。創作をなんやと思てんねん、と思う。
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私の大好きな大尊敬する中島みゆきさんは、「一回の失恋で100曲書ける」と言っておられる。何故か。創作だから。なんなら『時代』だって失恋ソングだし。
「事実」をどんな切り口で、どんな味付けで、どんな盛り付けで提供するか、それを考えることが「創作」であり、その切り口と味付けと盛り付けの中に、その時々の作者の「真実」が描かれる。
中島みゆきはたくさん失恋したのね。不倫もしたのね。年下とも付き合ったのね。っていう人がいるけど、「事実」しか書けない人間は「創作者」でありえないし、「真実」を提示することはできないと思っている。
みゆきさんのこと語り出すと止まらなくなるから、あと一つだけにするけど、ずっとみゆきさんと二人三脚で楽曲を作ってきた瀬尾一三というアレンジャーさんがいる。彼は「僕は『中島みゆき』とはずっと仕事をしてきたし戦友だとも思っているけど『中島美雪』(本名)は知らないんですよ」って言っている。それが事実かどうかは知らないけれど、お互い「創作者」どうしの付き合いというのは、そうあるべきだと思っている。べつに、みゆきさんの素顔を知りたいわけじゃないから(知りたいけど知りたくない。作品がすべてを語ってくれると思っているから)。
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だから私は、ルポよりも小説が圧倒的に好き。
事実に興味はない。真実にこそ興味がある。事実は個人にべったりとくっついているものだけど、真実には普遍性があるから。
作家の服を脱がして、わかったつもりになることだけはしたくない、とずっとずっと思っているし、これからもそんな関わりかたはしない。私は作品の中に醸し出される「作者像」を見ていきたいと思うから。
長々とまとまらない文でごめんなさい。
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