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うたのシーソー 12通目

トモヨさんへ

寒くなりました。雪の季節が訪れようとしています。
しかし、こちらへ引っ越してきてから、雪はほとんど見ていないのです。指が冷えはじめると、そのことをとても寂しく感じます。

昨晩は雪がふるえていました。と目を閉じて今を昨晩にする

雪の降るさまは確かにふるえているようです。雨のように真っ直ぐには落ちてきませんから。雪が「舞う」と言われるのもそのせいでしょう。

この歌はひとりでいるようで誰かといるような、誰かといるようでひとりでいるような歌だと思います。「昨晩は雪がふるえていました。」と言及している時点で、雪がふるえていたのは昨晩であると認めていながら、その言及とともに目を閉じることで「今を昨晩にする」のです。

昨晩にはならないでしょう。しかし、「今を昨晩にする」のです。

雪がふるえていたことを、あるいは、今を昨晩にすることを、他者に示すかのようでありながら、自らに言い聞かせているかのようでもあり、コミュニケーション不全のようで、成立しているようでもある。

先日、『ボヘミアン・ラプソディ』を見直したのですが、あの映画のなかでのフレディ・マーキュリーは、終始、そのように見えました。

桃のゼリーくずして食べる 五日間雨が降っても溶けない身体

体調がよくなかったときに読んだせいでしょうか。体調のよろしくないときの歌であればいいなと思いました。おいしくはない病院食を食べながら、桃のゼリーの味を思い返し(私にとって桃のゼリーは、元気なときよりも熱があるときの方がおいしく感じる食べ物のうちのひとつです)、桃のゼリーっておいしいよねと思っていました。

そう、『ボヘミアン・ラプソディ』を改めて見直していたのは病室なのです。私は自分のことを比較的、健康だと思っていたのですが、人生で初めて入院をしてしまいました。退院後、仕事のMTG中に世間話として、入院したことや先日の健診結果も芳しくなかったという話をしたところ、「御祓へ行ったら?」と言われ、きょとんとしてしまいました。

だって、御祓へ行かねばならぬようなことであるという認識が、私のなかにこれっぽっちもなかったのですもの。そもそも私は、入院したことも健診結果が芳しくなかったことも、それほどショックではなかったのです。もちろん驚いたり困惑したりはしたのですが、受け入れがたいことではありませんでした。

きみの好きわたしの嫌い 歩いたら足の先からけむりが出てる
走り出した子どもに足が増えていく 嘘に見えても仕方ないよな

同じ時間に、同じ話題を、同じ言語で話していても、同じことを思考し共有することのできないのが人間です。このふたつ歌もそういうことを歌っているのではないかと感じました。

ふいにもたらされた「御祓」というパワーワードによって、私は自分がひとりであることを感じ、「仕方ないよな」と思いました。あの場で「御祓」をパワーワードだと思ったのも、おそらく私だけなのです。

否定しておこうと思ったわけではないのですが、違和を伝えておきたいような気がして、「いや、それほどついていないとか、不幸だったとは思っていないのですよ。むしろ今年はいい年だったと思っています。」と口にしかけました。しかし、「いい年」であると表現することに躊躇いが生じ、口にはできませんでした。

それは、個人的な事情を鑑みて躊躇ったのではなく、世情によるものです。今年ほど「いい年」だと、枕詞を付けずに称すことを臆する年はないでしょう。

わたしがわたしに戻ろうとするところ夢のなかで、水のなかで

いい歌。とても沁みます。

ある側面から見れば幸せ、他方から見れば不幸。ある人が見れば美しい、他の人が見れば醜い。昨日は善人だったのに、今日は悪人、明日は善人でも悪人でもない。

そういう世界で息をしていることに、自覚的でありたいと思っています。

ちょっと元気のなさそうなお手紙になってしまいましたが、元気なの。このまま封をしようと思いますが、明日の私であれば、元気であることを元気そうに書ける可能性もなくはない思うと、やや無念です(笑)

元気だからといって、甘いものを食べすぎないよう気をつけます。

マイ


※引用した短歌の作者:椛沢知世

note:椛沢知世

中森舞 第1歌集『Eclectic』発売中


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