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レコードとCDを巡るあれこれ(#2)~seekerな人に贈るノスタルジック(?)エッセイ~

(original released on 1998/4/26)
レコードとCDを巡るあれこれ(#2)~seekerな人に贈るノスタルジック(?)エッセイ~

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 ビートルズの『アビイ・ロード』は1969年の作品だから、当然レコードを意識して作られている。A面ラストは「アイ・ウォント・ユー」、ブルージーなサウンドにジョンの叫びが乗っかるというかなり重い曲で、エンディングは永遠に続くかと思われるインストゥルメンタルがブチッと切れるという仕掛けである。代わって、B面トップバッターはジョージがエリック・クラプトン邸の庭で書き上げたと言われている太陽讃歌「ヒア・カムズ・ザ・サン」で、極限まで爽やかなアコースティック・ギターの音色で始まる。レコードで聴いていると、A面は「アイ・ウォント・ユー」の一種独特の緊張感に包まれつつ終わる。そして、数十秒の間をおいてB面に針を落とすと、「ヒア・カムズ・ザ・サン」の至福の安堵感が訪れるのである。

 ところが、この儀式がCDでは味わえない。「アイ・ウォント・ユー」とその前の「オクトパス・ガーデン」の曲間と同じ時間しか、「アイ・ウォント・ユー」と「ヒア・カムズ・ザ・サン」の間には与えられていないのである。

 これはいけない。この2曲は3秒や5秒でつながってはいけないのである。だから、CDで『アビイ・ロード』を聴く人は、「アイ・ウォント・ユー」が終わったら、プレイヤーを一時停止にしてトイレに行かなければならない。トイレに行きたくない人は、郵便受けに夕刊を取りに行かなくてはならない。トイレにも行きたくないし、夕刊も取ったという人は、3時のミルクティーを沸かさなければならない。

 とにかく、何でもいいからリスニング作業を一旦止めることである。そして、「アイ・ウォント・ユー」の余韻を心の何処かに残しながら、満を持して「ヒア・カムズ・ザ・サン」に相対する。それがビートルズに対する礼儀というものである。

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 コンセプト・アルバムというのがある。フーの『トミー』や『四重人格』、デヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』といった作品がその代表で、要するにキャラクターの明確化された登場人物が複数曲に現れ、ストーリーが展開されていくというやつである。

 『ジギー・スターダスト』の原題は『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From The Mars 』という長ったらしいもんで、もともとの邦題は『屈折する星くずの上昇と下降、及び火星から来た蜘蛛たち』といった。僕は一回で覚えられなかった。それから、『四重人格』の原題は『Quadrophenia』といって、これは造語なのでどこの辞書にも載ってない。

 このように、コンセプト・アルバムは題名からしてややこしいのである。ましてや内容となると、もっとややこしい。しかし、ややこしい方がいいのであって、余り分かりやすいコンセプト・アルバムは、安っぽく扱われて馬鹿にされる。情報量の圧倒的に多い視覚的手段を用いる映画に対抗するためには、分かりやすさよりも、想像力を喚起させる難解さとイメージの散乱が有効なのである。

 しかし、映画ではないのだから、言葉なしでイメージを完全に伝えるというわけにはいかない。当然、そこでは歌詞が意志伝達手段として大きな位置を占めることになるのだが、ロック・アーティストのほとんどが英米人である以上、歌詞は英語で書かれるのである。これは非常に大きな問題として、我々日本人の上にのしかかる。

 ロックなんて(あるいはポップ・ミュージックなんて)しょせんはメロディとリズムさ、歌詞なんて二の次、三の次なんだよん!! という考え方もあろう。まあ、それでいい種類のものも多いのは事実だが、コンセプト・アルバムともなるとそうもいかない。少なくとも、アーティスト側に何か伝えたいことあるという事情が、リスナーに前もって分かっている場合、リスナーは真面目にその歌詞の意味を受け止めてやらねばならないのだ。

 ところが、他の人はどうか知らないが、僕はン十年も洋楽ばっかり聴いている癖に、英語がからっきし駄目で、ヒアリングは勿論、辞書引き引きの対訳作業さえまともにこなせない。大体が、星くずがどうしただの、四重人格が分裂しただのという、ただでさえ意味不明な歌詞を、その程度の語学力で凌ごうという考えがどだい無理なのである。

 ということで、頼みの綱は日本盤に添付の対訳ということになる。

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対訳というのは付いてて当たり前だというのが最近の感覚だろうが、これは洋楽全体の売上減少、輸入盤のシェア上昇といった要因に危機感を持ったレコード会社のサービスが広がってきた結果で、80年代に入るくらいまでは、そんなモンがついていれば、しみじみ有り難く感じたものである。

 昔ラジオ関西でやってた「全米トップ40」という番組で、「私は将来洋楽の歌詞を翻訳する仕事に就きたいのですが...」という相談のハガキに対して、自身も対訳をこなす湯川れい子氏が、「あんなもんだけで絶対に食べていけませんよ。アルバム1枚やっていくらになると思います? 5千円ですよ、5千円。」と言っていたことがある。つまり、輸入盤なんてものが簡単に手に入らず、ツェッペリンが売れまくり、アバがヤンリクで1位を独走する時代を知るレコード会社としては、対訳なんちゅうものはあくまでもオマケに過ぎず、そんなサービスをせずとも、殿様商売で世の中を渡っていけたのであった。

 さて、学生時代にフーに心酔し始めた僕は途方に暮れた。『トミー』や『四重人格』の意味が分からんのである。他のアルバムは百歩譲って良しとしよう。しかし、この2枚だけはそうはいかない。何しろ「コンセプト・アルバム」なのだ。その上、「ザ・フーとは何より精神的なバンド」であり(by松村雄策氏)、リーダーのピートは「60年代最大のイデオローグ」なのだそうである(by小野島大氏)。イデオローグとは何ぞや、と辞書を引くと、「観念」と書いてある。ここまで言われて、メロディ&リズムだけで済ます事などができるはずもない。

 フーは日本では全く人気がなく、問題の『トミー』『四重人格』を含めたほとんどのアルバムは、中古屋か輸入盤屋で手に入れるしかなかった。『トミー』は中古の日本盤を2,000円で買った。しかし、当然の如く対訳はなし。一方、『四重人格』は中古さえ見つからず、更にイギリス盤もアメリカ盤もなく、6,000円も出して西ドイツ盤CDを買わざるを得なかった。そのCDにはドイツ語の説明はあったが、どこにも日本語が見当たらなかったのは言うまでもない。

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