見出し画像

レコードとCDを巡るあれこれ(#3)~seekerな人に贈るノスタルジック(?)エッセイ~

(original released on 1998/4/26)
レコードとCDを巡るあれこれ(#3)~seekerな人に贈るノスタルジック(?)エッセイ~

[6] 
 困った。非常に困った。英詞とニラメッコして何とか雰囲気みたいなものは分かるが、いかんせん限界がある。ならば、一生懸命英語を勉強すればよいではないか、と言われそうだが、元来アンテナがズレている僕は、死んでも中古屋で対訳付き日本盤を探し出してやる、という見当違いの方向へパワーを注いでしまったのだ。

 しかし、世間はそう甘くはなかった。ない。講義をサボって、丸一日ミナミとキタの中古屋を巡ってもそんなものは見つからなかった。英語の出来る友達に頼むという手もあったが、ちょっとやそっとの量じゃない。そのうちに英語の出来る奥さんに訳してもらおう、ということにして僕はいったんあきらめることにした。(ここに至ってもなお自分で英語を勉強しようという気にならなかったというのは、今考えれば、全くもって不可解なことである。)

 一年ほどたった頃、近所のレンタルビデオ屋に『トミー』の映画が入った。オリジナル・アルバムの発表から6年後に鬼才ケン・ラッセル監督が映画化したやつである。置いてあるのは日本盤、ということは字幕で対訳があるはずだわな……

 早速ビデオを借りてきた僕は、恐るべき作業に突入した。映画の字幕を全て書き写すという暴挙である。一体、あのパワーは何処から湧いて出てきたのだろうか? 最早、今の僕には想像もつかないことである。

 けれど、ここにも問題があった。一般的に映画の対訳というのはスピードを要求される都合上、意訳が幅を効かせており、歌詞対訳に比べて、詳細な表現をハショっていることが多い。『トミー』も同様だった。僕の貧弱な英語力でも、「そこをそない訳すかぁ!」という箇所が頻出した。更に問題だったのは、何の気まぐれか、映画版と称して、オリジナルの歌詞がかなり大幅に変えられており、オリジナルの対訳に活用しようと、考えていた僕には余計な迷惑だった。

 それでも、「原」対訳が手に入ったのである。あと、これを「本」対訳にするくらいは僕にもできるであろう。もっともいつになっても、その作業には取りかからなかったが。

[7] 
 就職した年の夏に、信州に旅行に行った。前のバイト先で知り合った友人が、夏の間、白馬のペンションで住み込みのバイトをすることになり、8月の終わりの彼のバイト終了に合わせて、僕が向こうへ行って、2、3日遊んで一緒に大阪へ帰ってこようという計画を立てたのだ。だから、行きは半年前に20万円で買ったばかりのオンボロ車でのひとり旅だった。

 2日目に彼と合流することになっており、初日は一人で松本の街を自転車でブラブラと回っていた。金がなかったので、泊まりは安いビジネス・ホテルにした。夕飯を食べに行こうとホテルを出て、繁華街に向かおうとしたが、案外さびれた所の方がうまい店があるかもしれんな、と思い、山手のほうに足を向けた。

 しばらく歩くと、小さなレコード屋があった。中古屋だった。連れがいるわけでもないし、別に急ぐ必要もないので、僕は何を考えるとでもなく、中へ入った。店は10坪程の小さいもので、世間一般ではそろそろでかい顔をし始めていたCDは全く置いてなかった。

 まずはクイーンのコーナーを見る。次にフーである。これはもう癖になっている順番であった。フーのところは、やはり単独では与えてもらえず、キンクス、ジャムと合同のコーナーである。おもむろにレコードを繰っていく。あるのは『イッツ・ハード』『フェイス・ダンス』といった最近のものばかりだったが、最後に『四重人格』が一枚あった。どうせ西ドイツ盤だろうと思って裏クレジットをみると、そこには次の文字が刻み込まれていた。「¥3600」

 さんぜんろっぴゃくえん? マルクとちゃうよな? ということはドルか? 待て待て、3,600ドルと言えば、250円×3,600だから……そんなはずあるかいな! ¥っていうたら円に決まってる、明治以来日本国が使用している通貨単位……

 ということは、これは、演奏者ザ・フー、原題『Quadrophenia』、邦題『四重人格』というアルバムの日本盤なのだ。そういえば、表の上オビのところに、「ARTIST: THE WHO、TITLE:四重人格、日本盤(中古)、8500円」と書かれていた。コソコソと中を見る。ある。対訳が入っている……

 次の瞬間、僕は1万円札を握りしめてレジのオッチャンの前にいた。

「いやあ、僕は大阪から来たんですけどね、ずっとこれ探してたんですよ、もうないでしょ、これの日本盤、どうしても対訳欲しかったからね、ほんまに偶然やったんですよ、ここにくるつもりなかったし、そこのホテルありますやん、ビジネス・ホテル、あそこに泊まってるんですけど、メシ食いに行こうと思ってこの前通りかかったんですよ、ほんならこの店が目に入ってね、ちょっと覗いたらこんなずっと探してたモン見つかって、いやあ、ホンマニ……」

 僕は何を一人で喋っていたのだろうか?

[8]
 それから、また数年が過ぎ、遂にと言おうか、フーのバック・カタログが再発された。全作品解説・歌詞・対訳付き。暇だった学生時代に、馬鹿みたいな労力を注いだ末に、この手に確保した汚い中古レコードは完全に無価値になったのである。

 好きなアルバムがCDでいつでも手に入るようになったら、面白くないなんていうマニアみたいなことは全然思わない。「アナログじゃないとロックじゃないよ」といつまでも言ってるやつもいるが、中身が素晴らしければ、CDでもレコードでも感動は一緒だ。ジャケットはレコードのほうが楽しいけれど、そうやって惜しまれながら消えていくのが、どんな世界にでも共通する正しい世代交代なのだ。

 ただ、ちょうどCDとレコードがバトンタッチする時期に最も多くのロックを聴いた僕には、それは単なる媒体の違いとかいうんじゃなくて、妙に直接肌に蘇ってくる思い出の触媒としての役目があるような気がする。CDで買い換えたために、レコードと両方持っているアルバムもたくさんあるけど、レコードの「俺は過去には王様だったんだぜ」と主張しているような大きなジャケットと、CDの「何言ってんだよ、今が問題なのさ」とクールにホザく鼻っ柱の強そうな小さなジャケットを見ると、全く違う印象を受けるから不思議だ。

 けど、何年か後には、どこかに昔の僕と同じ様なやつがいるんだろうな。その頃には、今売っているCDの半分くらいが廃盤になっていて、それを探して中古屋さんを必死で駆けずり回っている小汚い学生が。

《了》

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?