天上の回廊 第一話
水曜日の空は、鬱々とした曇天だった。時折、パラパラと雨粒が落ちてきて、翔太は不快な気分になった。
なぜだろう…最近は気持ちが沈んで、ややもすればイライラと人に当たってしまう。そんな自分が嫌になることもあり、彼はここのところ、彼女にも会っていなかった。
雨が強くなってきて、翔太は近くにあるビルに逃げ込んだ。エントランスホールには、沢山の人がいて、みな一様に無表情に見えた。全体的に灰色のトーンの建物は、彼に不安を覚えさせた。壁際に等間隔に配置された観葉植物が唯一の緑だった。彼は、そのよく名前のわからない植物を見ていると、少し落ち着く気がした。
東京にも、幾つも木々に囲まれた公園や、情趣あふれる庭園がある。翔太はそういうところが好きだった。
翔太は埼玉県の田舎町の出身である。そんなに辺鄙なところではないが、とにかく自然が豊富で、子供のころはよく山や川で遊んでいた。近くに、昔、山城だった低い山があって、そこに友達と連れ立って行っては、斜面に据え付けられた鎖をつたって登り、山道で虫を採ったり、蛇いちごを摘んで食べたりしていた。
頂上に出ると、コンクリートの枠のような城跡と呼ばれるところがあり、そこでみんなで家から持って来たおにぎりを食べた。時の経つのも忘れて、思い思いのことを喋り合い、気がつけば山頂から、故郷の町に夕陽が沈むのが見え、みなうっとりしたようにそれをいつまでも眺めていた。
翔太は、ふと我に返った。高い高い天井を見上げ、そこに彫られた彫刻に目を凝らすと、天使と悪魔の像のようである。壁の上の方には松明みたいなものがチロチロと燃え、さっきよりだいぶ暗くなったようだ。
人の数は先ほどの半分くらいになっている。ホールの隅の方で、サラリーマンの集団がわいわいと言い争っているようだ。他の者達は足を止めて、それを興味深げに見ている。翔太は、いたたまれない感じがして、その場を去りたくなった。
ホールの奥の方に、広い通路があるようで、明るい光が漏れていた。彼はそちらに向かって、人混みをかき分けて進んだ。
通路に入ると、そこには誰もいなかった。ただ、柱と低い天井に無数に設置された照明が、冷たく煌々と光っているのみである。翔太は胸がざわざわするのを感じた。どこまでも回廊は広がり、四方八方に伸びている。壁も光っていて、彼の顔を照らした。彼はゆっくりと歩き出した。
しばらく歩くと、向こうから誰かが歩いて来るのが見えた。視力のあまり良くない彼には、どんな人物かはわからないが、女性ということはわかった。相変わらず後ろからは誰も来ない。女の足音が大きく響いていた。
だんだんその姿がはっきりしてくると、彼は女から目が離せなくなった。女は黒のカットソーにテラコッタのワイドパンツを着て、黒いサンダルを履いていた。アクセサリーなどは銀色っぽいブレスレットをしているくらいで、シンプルな出で立ちだった。しかし、なぜか彼女からは不思議な色気が漂っていた。女は翔太の3メートルほど前で立ち止まり、何事か言ったように見えた。しかし彼にはよく聞き取れなかった。
「はい?なんですか?」
彼は聞き返した。
「あなた、影浦翔太さんね?」
彼女は今度ははっきりした声で言った。翔太は少なからず驚いて、矢継ぎ早に尋ねた。
「な、なんで私のことをしってるんですか?私に会ったことがあるんですか?あなたは誰なんです?」
女は少し俯き気味に微笑んで、ゆっくりとした口調で答えた。
「あなたは私の初恋のひとよ」
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