生老病死
この世界には四つの「苦」があるとお釈迦さまは説かれました。
「生」「老」「病」「死」の四つです。
生まれること。
老いること。
病に罹ること。
死ぬこと。
これは人間の宿命であり、すべての人が例外なく通る道です。
人の生きる道は思いに任せぬことばかりです。
生まれた人間は、やがて年老いて、病に罹り、そして、いつか死んでいく。
悲しいですが、これが現実であり、真理なのです。
「認知症」という病気があります。
私はこの病気ほど人生の真理を表している病気はないと思います。
元気で聡明、明るく優しかった人が、次第にその人間性を失っていく。
だんだん身体の動きが鈍くなり、頭の働きも鈍くなって、怒りっぽくなったり、凶暴になったりしていく。
自分に人生を説いてくれた先生や、先輩、
尊敬していた人がだんだんその機能を失い、子供のようになっていきます。
幼い子供から、最後には何も出来ない赤ん坊のようになって死んでいきます。
ある女性の話で、散々若い頃、苦労と努力を重ね、やっとの思いである程度の成功を収め、落ち着いたと思ったら自分が認知症になってしまった、なんて話も聞きます。
人生とはある意味残酷なものです。
また、あるお嫁さんはお義父さまが認知症になり、お義父さまは気に食わないことがあると自身の汚物をお嫁さんに投げつけたり、そこら中に塗りたくったりしたそうです。
お義父さま思いのお嫁さんはそれはそれは甲斐甲斐しくお世話をされていましたが、そんなことが続いて、溜まりかねたお嫁さんはあるとき、お義父さまの上に馬乗りになって首を絞めたそうです。
すると、お義父さまはふと穏やかな顔になられて、「悪かったなあ…殺してくれ…」と仰ったそうです。
お嫁さんは自分のしていたことが恐ろしくなって、飛び退いて謝ったそうです。
この話はあまりにも悲しい話ですが、認知症というものは悪いことばかりではないように私は感じました。
だんだん記憶を失っていく病気ですが、楽しい記憶や嬉しい記憶だけではなく、苦しい記憶、悲しい記憶もすべて失っていくのですから。
死ぬほど辛い記憶や、耐え難い悲しみの記憶も失くしていくこの病気は、ある意味救いなのかもしれません。
「執着を手放す」ことが悟りへの第一歩ですが、記憶を手放していく過程は悟りへの道のりと言えなくもない、と思いました。
人間世界には様々な「苦」がありますが、この世界はあまりにも上手く出来ているな、と感じざるを得ません。
どんな人間もやがてそうやって死んでいきます。
それが自然であり、どんなに抗っても、どうしようもないことなのです。
その現実を受け止め、受け入れていく。
その姿勢が必要なんだな、と強く思いました。
現実はあまりにも残酷なようですが、終わりがあるからこそ、今現在のかけがえのない日々を大切に生きていくことが私たちの務めなんでしょうね。
https://youtu.be/vx2u5uUu3DE
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