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皮肉なことにアートと資本主義は似ている

わたしが好んで聴くゴルジェという音楽ジャンルがある。
こんな具合の音楽のことだ。

ゴルジェのルールはこう。

1.タムを使え
2.それをゴルジェと呼べ
3.それをアートと呼ぶな

とても簡単である。
その上、「1.タムを使え」とあるが最近ではタムを使わなくともタムっぽい音を使っていればOK、という許容度になってきている。
これほどになんでもありな段階、これはデュシャンの泉がアートを逸脱し現代アートになったとき、若しくはマヂカルラブリーが漫才を逸脱し漫才論争の的になったときと同じである。逸脱した作品に対して、果たしてそれはゴルジェなのか?という問いが生まれる段階なのだ。もともとゴルジェはその段階にいた。
それは多数決で決まるのか、偉い人が決めるのか、はたまたすべてはゴルジェなのか。
ここまで液状化した概念はもう手をつけることができない(それがゴルジェの良さでもある)。ここから先はアートと同じ、なんでもありの世界になってしまうのだ。

ゴルジェはアートではない、だってルールにそう書いてあるから。
聴くにあたってリアリズムやフォーマリズム云々、批評軸を作ってしまうのもゴルジェは許さないのかもしれない。
だがしかし、実際のところはどうなのだろう。そいつをアートと呼ばないだけで、批評軸的な視点でそれは、そういう反芸術的アートとしてアートという大きな括りの中に飲み込まれてしまっているのではないだろうか。
上で例として少し挙げたデュシャンの泉だってそうだろう。ダダイズムは反芸術を掲げていた。
それはのちに革命的な芸術運動として片づけられた。確かにダダイズムは歴史において画期的な確変をもたらし、素晴らしい役目を果たした。ただそれは良い悪いは関係なく、アートの枠に収まった。

よくよく考えるとそれは当たり前のことなのかもしれない。アートの定義なんて人それぞれで、机の上のりんごに対して「これはアートです」といえばそれをアートとして消費せざるを得ない。

故に我々はアートという概念を生み出した以上、それから逃れることはできない。わたしはこれはいずれ我々に無力感を与える材料になるのではないかとふと思った。

カートコバーンは資本主義と戦っていた。彼がなにをしても、どんな革新や逆張りをしてもそれは商業的なシステムをさらに肥やしていく材料にすぎなかった。どんなカウンターをしても資本主義に飲み込まれていくその無力感は彼の音楽性の根源と言っても過言ではない。のちに彼は死んだ。資本主義は彼の死さえも丸呑みし、巨大資本が今も尚大量の彼のTシャツを刷っている。

人間は個性の表現や自由の追求などから逸脱を欲してきた。それが不可能だと悟ったとき、我々はうつ病や不安障がいに苛まれる。
しかし、幸いアートにはまだ表現の余地がありすぎる。
かと言って、例えば音楽という少し狭めた視野でアートをみてみると、リバイバルにリバイバルを重ねたり、オルタナティブとかミクスチャーとか、手をつけきった3音構成だとか、そうか、もう行き詰まってしまったのかと思ってしまう。
いずれ我々は表現の余地をなくし無力感に苛まれる運命なのだ。

上記で述べたように、資本主義とアートはすべてをその概念の中に呑み込んでしまうという面においてはとても似ていて、その上、それらのオルタナティブはあるように見えて無い。

The 1975はそのようなポスト資本主義的世界観をアイロニカルにポップスとして表現した。加速主義的な内側からシステムを破壊しようという考え方にも通ずるアイロニカルな態度は、資本主義に会心の一撃を与え得ると最初のうちは期待していたが、冷静に考えてそんなはずはなかった。
なんなら、ジジェクが言うにはそういうアイロニカルな距離感こそが資本主義を持続させているとまである。

我々は資本主義とアートに、アートは資本主義に幾度となく異議申し立てをしてきた。それで、我々の世界は変わったのだろうか。
もちろん変わった。少しずつだし、部分的ではあるが。
しかし、資本主義やアートという大きな構造の中で、どう足掻こうが逸脱できないという無力感が我々にずっと付き纏っている。その負の感情は時が進むにつれて大きくなっていくばかりだ。解決策は歴史を一旦終わらせるか、急進的快楽主義を極める、もしくは我慢するくらいしかないのではないだろうか。

以上の事を即すと、幸福論的にいえば、コミュニティは大きすぎないほうがいいのかもしれない。

比較的小さなコミュニティで、仲間と共に丁寧に生きていく。今の時代はそれが一番の反抗だとつくづく思う。

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