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『Black lives matter』という言葉の違和感、そして暴徒化するデモについて─映画『リベリオン』に見るディストピア化

こんにちわ。

#意識低い系社長  です。

さて今回は今全世界でデモがさかんに行われ、『Black lives matter』と人々が口々に叫んでいます。わたしはこの言葉に疑問を感じ、今回記事にしてみました。

1.『Black lives matter』の語源と意味(和訳)

2012年2月、南部フロリダ州でトレイボン・マーティンさんという黒人の高校生が夜、フードをかぶって飲み物とお菓子を買って帰るとき、自警団の男性に不審者と見なされて射殺されたことに端を発し、それを知ったアリシア・ガルザさんという黒人女性がSNSに投稿した文章、“Black people. I love you. I love us. Our lives matter, Black lives matter”が始まりとされています。

日本語に訳すると、「黒人のみなさん、わたしはみなさんを愛してます。みなさんも愛してます。わたしたちの命は大事です。黒人の命は大事です。」
となります
。(稚拙な和訳で申し訳ありません。)

確かに、はじまりは理不尽な殺人に端を発しています。射殺された黒人に悪意はなく、銃も持っていませんでした。射殺した白人は正当防衛が認められ無罪となりました。

現在叫ばれている『Black lives matter』は少し、意味合いが変わっているように感じます。「黒人の命は大事だ」ではなく、「黒人を殺すな」に変わってきているように、わたしは思います

2.『Black lives matter』に感じる違和感

先に述べたように本来の意味と解釈が変わってきているのはもちろん、それ以上に自分たちを「Black」と表現していることに違和感を覚えるのです。

肌の色で表現をするのは差別だ、としてポリティカル・コレクトネス運動が起きていたはずです。ハリウッド映画を「ホワイトウォッシュ」と非難し、黒人俳優を多くの映画にキャスティングさせなければならない、という不文律を作ってきたのは間違いなく、彼らです。

それなのに、自分たちを「Black」と呼称することに躊躇いがないのはおかしくありませんか?肌の色の表現をするのであれば、我々モンゴロイド人(アジア人)もかつて「Yellow monkey」(黄色い猿)と揶揄され差別を受けてきました

今でもアジア人特有の釣り眼を真似たりする海外の著名人がいて、SNSで炎上したりしてますよね。わたしは、垂れ目なんですが…。

3.一部の暴徒化したデモ隊

ごく僅かではありますが、一部はデモと関係なく暴行や略奪を行っているというニュースを目にすることが多くなってきました。最近ですと、ワシントンの銅像が焼かれるなど、もはや目的が分からない暴動もあります。(※ワシントンは黒人奴隷を雇っていたという史実から、そのような暴挙に出たようです。)

自分たちの主張や主義を押し付け、重要文化財や貴重な世界遺産を破壊する行為は、テロと同じです。2001年にタリバンの手によって行われた、バーミヤンの仏教遺産の破壊活動と同じです。

わたしは、差別問題以前に、人類史に名を残す有形無形文化遺産の破壊に断固反対します。はっきり言いますが、文化遺産は例えそれが差別の象徴で負の遺産であったとしても、人類が積み上げてきた歴史そのものなのです。それを破壊してなかったことにしようとすれば、ただの歴史修正主義にすぎず、知性のかけらも感じません。

4.今回の差別反対運動について

先の項でも述べましたが、文化遺産の破壊は短絡的かつ、無知の表れです。

よって、わたしは今回の差別反対運動に何一つ賛同できません。彼らの自制が効かないのであれば、トランプ大統領の言うように軍による鎮圧も必要ではないかと思います。

ですが、わたしたち日本人は差別問題に対して、あまり関心を持ちません。なぜでしょう?

5.日本人の差別意識

日本では大昔から階級社会でした。

聖徳太子の冠位十二階からはじまり、江戸時代の士農工商・穢多(えた)・非人(ひにん)に至るまで、福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、『学問のすゝめ』に明記するまで、徹底した階級社会でした。

日本人はそもそも差別意識の塊のようなものです。現代においても、年齢、性別、出自、家柄、学歴、身長、年収、見た目、どれを取っても、同じ日本人同士ですら差別意識を持っています。

ですが、これをなくせ、というのは無理な話なのは皆さんもお分かりだと思います。人間の感情や感性の問題なのですから。

顔の醜い男性に告白されて、OKする女性がほぼいないのと一緒です。

6.多様性を認めるなら

では、グローバル化社会を目指し、多様性を認める社会にしていくにはどうするべきなのでしょう一番簡単な方法が感情や感性を失くすことです。喜怒哀楽、美しい、かわいい、汚い、不快、こういった感情を取り除くのです

『リベリオン』という映画をご存知でしょうか?2002年に公開された近未来SFアクション映画で、「ガン=カタ」という二丁拳銃でなぜか近接格闘術を用いながら、多数の敵をなぎ倒していくという謎のB級映画(失礼)なのですが、この映画の舞台は、古典的管理社会のディストピアであり、主人公(クリスチャン・ベール)もまた、人間としての感情を封印し、存在自体を禁じられた書物や絵画を隠し持つ、反逆者たちを取り締まる側の人間だったのだが、とあるきっかけで、人間としての感情を取り戻し、管理社会の頂点に立つ総統に歯向かう、まさに「リベレーター」(解放者)となる、というありふれたストーリーです。

しかし、人間としての感情や感性を失うディストピアを目指すのでなければ、多様性=偏見=偏見の容認=相互理解という平和的解決手段をするしかありません偏見は感情ですから抑制しようがありません。

偏見を寛大な精神で受容し、少しずつ距離を縮め、相互理解を可能とする社会でなければ、行き着く先は「ディストピア」です。


ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

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