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【悲報】バンクシー、やはりただの落書き屋だった…。でも…?

おはようございます。朝から都内は大雨です。もう仕事にも行きたくない、

#意識低い系社長  です。

先日わたしは以下のツイートを致しました。


そして、今朝見たニュースは以下の内容です。


どうやら、やはり消されたようです。

やはりバンクシーは、神出鬼没のただの落書き屋であって、芸術作品でも公共の福祉でもない、と判断されたようです。

わたしは常々思っていたのです。公共の施設や他人の所有する建物などに、落書きをして評価を得るバンクシーという存在に疑問があったのです。

今日はそれについて書いていこうと思います。


1.バンクシーとは

バンクシー(Banksy, 生年月日未公表)は、英国を拠点とする匿名のアーティスト、政治活動家、映画監督。
彼の風刺ストリートアートと破壊的なエピグラムは、独特のステンシル技法で実行された落書きとダークユーモアを組み合わせたものである。
彼の政治および社会批評の作品は、世界各地のストリート、壁、および都市の橋梁に残されている。
バンクシーの作品は、アーティストとミュージシャンのコラボレーションを伴う、ブリストルのアンダーグラウンド・シーンから生まれた。
バンクシーは、後に英国の音楽グループマッシヴ・アタックの創設メンバーとなったグラフィティアーティスト、3Dに触発されたと語っている。
バンクシーは彼の作品を壁や自作の物理的な小道具のような、公に見える表層に展示している。
バンクシーはもはや彼のストリートグラフィティの写真や複製を販売していないが、彼の公開された「展示」は定期的に転売されている。
少数のバンクシーの作品が正式に、非公開で、Pest Controlを通じて販売されている。バンクシーのドキュメンタリー映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』(2010年)は、2010年のサンダンス映画祭で公開されている。
2011年1月に、彼の映画はアカデミー賞ベストドキュメンタリー部門にノミネートされた。2014年に、Webbyアワード2014で年間最優秀賞を受賞した。

(以上、wikipedia「バンクシー」より引用)

彼は、自身の「落書き」を軽犯罪行為と認識しているからこそ、匿名アーティストであり、彼の作品(?)は、反戦、反消費主義、反ファシズム、反帝国主義、反権威主義、アナキズム、ニヒリズム、実存主義など、様々な政治的社会的テーマを扱ってきています。
また、彼の作品が一般的に批判しているという人間の状態の要素は、欲、貧困、偽善、退屈、絶望、不条理、そして疎外だそうです。

日本でも、兵庫県の公衆トイレにバンクシーのものと思われる落書きがありましたが、自治体が警察に被害届を出した、という話もありました。


2.「落書き」について


日本でも数多の落書きを見ることができます。土手の欄干下などには「愚連組参上」のような暴走族のものと思わしき、スプレーでの落書きを目にすることがあります。

やはり、根本的に公共の場での「落書き」は、自己承認欲求や反社会的行為を楽しむ、犯罪行為であり、公に認められるものではない、とわたしは考えています。

バンクシーの作品を「表現の自由」の象徴として扱う方たちがいますが、わたしは以前より納得ができていませんでした。

公衆の場での許諾のない「落書き」は芸術や表現の自由とは呼べません。


3.寛容と不寛容の狭間


今、世界を覆っている「不寛容」の空気は、日本の「自称正義の執行者」やアメリカを中心とした「BLM運動」に見て取ることができます。

バンクシーはそれを表現したかったのかもしれませんし、少なくともわたしはロイターの記事の動画の内容を見て、バンクシーの「落書き」行為そのものの是非はともかく、伝えたいことは分かるような気はします

他者に「不寛容」であることは、基本的に善意より悪意が優先されるという状態である、とわたしは認識していて、バンクシーの「落書き」を善意と見るか悪意とみるか、によってもその判断基準は分かれるところとなります。


4.二律背反的なバンクシーの行為


総括になりますが、彼の行為は前提として「犯罪行為」であります。


ただ、今後、彼の作品をウィットに富んだ風刺として、アートとして認める「寛容」な社会を目指すのか、ただの犯罪行為に過ぎないと断罪する、「不寛容」な社会を目指すのか、これがわたしの言いたかったことです。


世界はどちらの方向を向いて進むのか、しっかり目を見開き、耳を澄ませて、考えていきたいと思います。



ここまで読んで頂き、ありがとうございました。


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