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ぼくは田舎の海辺のどんなところに癒されているのか #3

2.田舎の暮らしで癒される


①人口密度が低いのは、やっぱりいいことだと思う

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 ぼくが行く海というのはたいてい田舎です。伊豆七島とか沖縄の離島とか伊豆半島とかで、東京のような街ではありません。
 間違ってもお台場の海のようなところには行きません。
 大学生の頃には電車で行けるので通っていた藤沢とかの湘南と呼ばれるあたりも、わりと町なので社会人になって車を持つようになると、足が遠のきました。

 東京だと絶えず周囲に人がいるし、往々にして混雑しています。行列に並ぶことも珍しいことではありません。
 人が多いということは、お互いが不愉快な思いをしないようにルールができます。ルールができるとそれを守った守らなかったという話になります。
 なによりも電車のラッシュなどは、ひどいストレスです。
 ぼくの経験では、人って、人が多すぎると競争心が働きますが、人が少ないと助け合おうという気持ちが働くことが多いような気がします。

 たとえば、都内で車でスーパーマーケットに行くします。ぼくの経験では、たいてい駐車場待ちの列があります。まず列の順番を守らなければなりません。駐車場に入ったら、白い枠線の中にキチンと停めなければなりません。駐車場には入庫を管理する仕組みがあって、2000円以上買うと2時間駐車無料みたいな仕組みがあります。その精算手続きもぼくは面倒に感じます。これらのルールを守らないとクラクションを鳴らされたり、注意されます。まあ、当たり前ですよね。

 でも、少なくともぼくの住んでいるあたりでは、車で移動するのが普通ですが、どこへ行っても駐車場待ちの列ができるということはありません。駐車場の枠線はありますが、たいていガラガラなので、みんな割と雑に停めています。もちろん入庫管理システムなんてありません。だいたい何かをするのに並ぶということは、ほぼありません。
 ザクッと駐車して、車のロックもかけず、買い物して、ピューと出ていくだけです。
 あまりいい例ではなかったかもしれませんが、人口密度の違いによって、日常生活のちょっとしたことでストレスの多寡があります。少なくとも満員電車に乗らなくてもいいというだけで、ストレスはだいぶ違います。

 ぼくが田舎の海辺に遊びに行くのは、そうした都会暮らしのちょっとしたストレスによりもたらされる心身の負荷を洗い流す意義があります。そういう負荷を溜め込まないようにすることで、だいぶ癒されていると感じます。


②非匿名性が結果的には居心地がいい


 田舎というのは、そのコミュニティにどんな人がいて、何をしているかが、なんとなくわかるようになっています。それが息苦しい面もあるんですが、いい面もあります。
 逆のいい方をすると都会の生活には匿名性があって、自由で気楽な面がありますが、それに伴うデメリットもあります。

 それに関する経験を2つ書いてみたいと思います。
 ひとつ目は、マンションの隣人DV事件です。
 その頃ぼくはオートロック付きの都内のマンションに住んでいました。同じ階に居るのは10世帯くらい。両隣に住んでいる人の顔は覚えていましたが、それ以外はだいたい奥に住んでいる人とかエレベーターの前に住んでいる人というくらいの認識しかありません。
 あるとき仕事から帰ると廊下の奥の方に警察がいて、その部屋の住人となにやらゴタゴタしていました。その様子を見ていた隣人から聞いたところ、旦那さんが奥さんにDVをしていて旦那さんが事情聴取を受けているということでした。
 そのとき感じたのは、ぼくは同じフロア人さえほとんど知らないし、その人がどんな人で、どんな暮らしをしているのかも知らないって結構怖いことだな、ということです。

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 二つ目は、離島に旅行に行ったときの経験です。
 ぼくは離島の旅が好きで年に何度か離島旅をしてきました。以前、多良間島という宮古島の近くにある離島を10日間旅しました。
 離島の旅は何度してもいいものです。特に船に乗る離島旅だと、別な世界に行くような感覚があります。たいてい島の時間はノンビリしてますしね…

 10日間も離島で暮らしていると、自分のリズムが変わってくるのがわかります。歩くのがゆっくりになり、呼吸が深く大きくゆっくりになり、ノビノビと胸をはって歩くようになります。空は広く、海は青くで、木々は緑です。
 呼吸する空気も飲む水も食べ物も、島の物です。身体全体が内側から島に馴染むような気がします。
 島の人との会話もノンビリしたやさしいものです。
 島にある雑貨屋さん(スーパーマーケットではない)のオバアは、いたりいなかったりします。オバアがいないときは、欲しい商品の代金をレジの横に置いて、品物を持っていくのです。島の人みんながそうします。ほとんど無人販売所。
 泊まっていた民宿の人は、誰も自分の部屋に鍵をかけません。
 ちなみに島の人は車のロックもしません。
 ぼくは滞在中レンタカーを借りていたんですが、当たり前のように車をロックしていました。ぼくがいないときに、民宿の駐車場で、ぼくの車を動かさなきゃいけない状況になったらしいのですが、動かせなくて大変だったようです。宿の人から車をロックしないでくれ、どうせ誰も何も盗らないからといわれたことがあります。

 それってぼくにはけっこう衝撃的な経験で、東京だと近所のコンビニに買い物に行くときも家の鍵はかけてましたから…なんたって同じフロアに住んでいる人がどんな人かも知らないわけで…
 いえいえそれどころじゃなくて、ちょっと買い物をする間の自転車にだって鍵をかけてましたから…

 この経験が意味することは、ひとつは誰が何をやっているかだいたいわかっているコミュニティでは、生活にかかるコストや手間(鍵をかけるとか、レジのそばで番をしなければならないとか)が低くて少ないということです。もうひとつは単に鍵をかける手間が少なくてラクということだけではありません。鍵をかけるという行為には、その前提に誰かに自分の財産や暮らしを脅かされるかもしれないという警戒心があると思うんです。それって都会では当たり前すぎて自覚はないんですが、自分の気持ちにストレスがかかっているんじゃないでしょうか。
 鍵だけではありません。雑貨屋の支払いも根っこには同じ構造があると思うんです。誰が何をやっているかだいたいわかっているコミュニティでは、悪いことをしてもどうせわかってしまうのだから、やらないわけで、それがコミュニティの構成員全体の心理的負担を少なくしているのでしょう。


 多良間島滞在の10日間、ぼくはこうしたストレスから解放されていました。長年身体に張りついていた錘が剥がれたような爽やかさを感じたのです。ココロが軽くなったようでした。そのとき都会暮らしには、無自覚にストレスがかかる場面が結構あるんだということを認識しました。多良間島以外にも離島の旅でも、同じような感覚を持ちました。
 おそらく都会の暮らしには、満員電車に乗るとか、スリに遭うとか、何かを盗られるとか、変な人に突然何かされるとか、マンションの同じフロアの人が危険な人物であるとか、そういうストレスというか緊張感があると思うのです。それが日々の暮らしをとおして、何年も何十年も人のココロにあり続ける事って、ココロに負担をかけるし、価値観にも影響を与えるだろうし、対人関係も変わってくるだろうし、ひいては人生の全体に大きな影響を及ぼすんじゃないか、ってぼくは考えるようになりました。

 ぼくが田舎の海辺暮らしに惹かれるようになったのには、こんないきさつがあります。そして都会で暮らすのはちょっとツライな、できれば海辺の田舎で暮らしたいなと考えるようになりました。

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