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【読了記録】 『アンナ・カレーニナ』(レフ・トルストイ) 感想

今回も私事から入って誠に恐縮だが、僕はこの2ヶ月間noteにいなかった。
だがそれは本も読まずにのんべんだらりと暮らしていたことを意味するわけではない。この世界的大文豪の超大作に取り掛かっていたのだ。

新潮文庫の木村浩訳で読んだ。実のところ再挑戦だった。
学生の頃に読んだ時には、中巻の前半部分で頓挫したのだが、今回ついに夢が叶って、下巻の最後まで読むことができた。

世界中の大手出版社や新聞における、古今東西の全ての小説のランキング(ベスト10や100など)の常連であり、しばしば一位を取ることもあるこの作品。
アメリカの文豪ウィリアム・フォークナーが、今まで読んだ中での最高の小説を、三つ挙げるように言われた時、
「言うまでもない。それはアンナ・カレーニナ、アンナ・カレーニナ、そしてアンナ・カレーニナである」と言ったのは有名な話である。

トルストイ自身はノーベル賞を獲らなかったものの、フォークナーだけでなく、トーマス・マンやヘルマン・ヘッセ、ロマン・ロランなど、彼のことを深く尊敬し、愛したノーベル賞作家は枚挙に暇がない。
彼の先輩作家であったドストエフスキーもまた、彼を極めて高く評価していた。
日本では白樺派の作家をはじめ、島崎藤村、宮沢賢治などもトルストイに深い関心を寄せた。

そしてこの本を読み終えた今の僕から見ても、彼ら巨匠陣の極めて高い評価は全く真実のものだったと、実感できる。
それどころか、アンナ、ヴロンスキー、リョーヴィン、キティなどの各登場人物は、今後もずっと、僕の心の中のどこかで生き続け、時として僕を叱咤激励してくれる……そんな存在になりそうな気がするのである。

ここでは、上記の四人の主役級人物を取り上げ、彼らについての僕なりの作中での考察、性格の分析、そして作品全体の総合的な感想を述べてみたい。

次の見出しより下の部分はネタバレ全開なので、いつか作品を読みたい人は注意して読んで欲しい。


アンナ

この小説の主人公である。

有名な話だが、主人公なのに最初100ページ以上に亘って姿を現さない。さらに加えるなら、最期の退場も、他の登場人物より100ページほど早い。
この中にはどこか、綿密かつ芸術的な対称が認められる気がする。

さらに、登場時にあれほど希望に満ちた光輝を、その表情から惜しげもなく振り撒いていた幸福感溢れるアンナと、崩れゆく精神に蝕まれ、絶望感と暗黒の中で無慈悲な一撃を受けて最期を迎える不幸なアンナとを比べてみれば、そこにもまた一つのシンメトリーが浮かび上がる。

神経質なまでに計算されたこれらの対比には、あたかもバッハの音楽のように、神秘めいた美しさがあるように、僕には思われる。

アンナは元々、上に貼った彼女の有名な肖像画が示すとおり、非常に外交的で情熱的、かつ積極的な人物で、自分と他者に対して極めて誠実で優しく、垣根を設けず、かつ芯の強い情熱的な貴婦人である。

このような女性が、本来の旦那である俗物的な官僚、カレーニンに常々うんざりしているなら、魅力的な男性を見かけたら、成し得る行動は一つしかないように思われる。それもただちに行動に走ることは、おそらく想像に難くない。

かくして、アンナは魅力的な男性であるヴロンスキーと不倫し、退屈なカレーニンと別居することになる。しかし、しばらくすると徐々にヴロンスキーの愛が冷めてゆく事実を目の当たりにする。

そして、カレーニン家に置き去りにする羽目になった、目に入れても全く痛くないような愛息子セリョージャに、もはや二度と会うことができないようにされてしまったことも、アンナに深刻なストレスを与えた。

セリョージャを完全に失い、自分を愛してくれるものがヴロンスキーただ一人になった今、アンナが最後に欲しがったものは、ヴロンスキーの自分への真実の愛、ただそれだけだったのだ。だがヴロンスキーにはついぞそれが分からなかったのである。

こうして、アンナの精神は徐々に打ちのめされ、大木がメキメキと音を立てて激しく倒れるように、ある辺りから加速的に崩壊を始める。僕がアンナのパートで最も大きな共感を持って眺めたのは、実は彼女の心のこの『闇堕ち』であった。

周囲の人々全てを憎しみや妬みの目を持って眺めるなど、深刻な認知の歪み、思考の短絡化、被害妄想、社交不安、神経症的な行動、不眠、感情抑止力の低下、それから痛ましいほどの観念の奔逸が認められた。
僕は医者ではないから、正確な判断はできないし、観念奔逸だけはちょっと違うだろうと思うが、それを除けばアンナはまさに、統合失調症の陽性症状そのもののように、僕には映った。
トルストイの時代には精神疾患の理解はあまり進んでいなかったはずだが、彼はこのアンナの病んだ心も見事に、忠実に再現してみせたのである。

そしてその錯乱と怒りに溢れた心の描写があまりにも現実のそれに似ていて、リアルであるがゆえに、今日も多くの人が切なく悲しい感銘と共感を得られるのではないだろうか。

第一編の冒頭に挙げられていた、
『不幸な家庭はどこも、その趣が異なっている』という文言の、あの不幸とは、もしかしたら精神疾患を罹患した後の各個人のことを表していたのではないだろうか。
明らかに邪推とは思えど、そういうことさえ考えてしまうのだ。

彼女の最期のシーンの叙事的な描写はさほど恐ろしくなかったので、そういうのが苦手な方は安心して欲しい。
だがそれよりも彼女の心がバラバラに引き裂かれていく過程が、リアリズムの手法をもって現実のことのように描かれていくため、あたかも彼女の苦しみがそのまま僕にも伝わってくるようで、繰り返しになるが、居た堪れなかった。

それでもアンナは自分に対する正直さと、皆への感謝を最後まで捨てずに、世の中に望んでいた気がする。心の闇が深まる中で、時々本来の光のアンナも顔を見せようと頑張っていたように思う。その健気で美しい努力に、僕は惜しみなく拍手を送りたい。

ヴロンスキー

リョーヴィンが先にプロポーズしたキティを誘惑し、その後平然と振って彼女を絶望の世界に叩き落とし、今度はアンナと両想いになり、既婚のアンナを不倫の闇と病みに引き摺り込み、愛し合って子供を作らせた優男、それがヴロンスキーである。

と、これだけ書くととてつもなく悪く、軽薄な男だと思われるだろう。
実際に僕も、最後まで読めなかった学生時代には、この伯爵に対する印象は非常に悪かった。

しかし、今回の読了では、彼は全く異なる、いや、むしろ正反対とも言えそうな印象を僕に植え付けた。
彼は彼なりの公平さと人当たりの良さを持ち、自分自身に対して正直すぎる欠点はあるものの、誰に対しても誠実で真剣に生きようとする青年将校でもあったのだ。

感情的になりやすいという自分の欠点を、ヴロンスキーはしっかりと弁えていた。従って人と接する際にも、彼はそれを常に意識していた。相手が誰であれ、穏やかに温かく優しく、丁寧に振る舞おうとする努力を彼が怠ることは始終なかった。
これは本当に芯の強い人物、自己観察力に優れた人物にしか出来ないことのように、僕には思われる。

ヴロンスキーは確かにアンナを不倫の渦に引き込んだかもしれないが、根っからの真面目で正直な好青年だったのである。
優男だなんて、とんでもない。
こう考えてみると、彼とアンナとの間には内面的な共通性があることに気づく。彼らが家庭という柵を乗り越えて惹かれあったのも、無理からぬことだったのかもしれない。

アンナに真実の愛を与えられなかったことで彼を責める向きもあると思うが、よくよく考えてみると、精神を持ち崩して行くアンナとの別離を望む考えや気持ちがその内心に芽生えたことは、彼には最後までなかった。加えて僕の記憶によると、彼は作中で一度も嘘をつかなかった。

最後に彼はアンナを亡くした失意と自己に対する絶望的な責任感で、今後は正義のためだけに生きようと決意する。彼女への彼なりの罪滅ぼしをしようと、自己犠牲の精神で戦場に赴くのだ。この姿勢もまた、本当に高潔な人間にしかできないことではないだろうか。

リョーヴィン

(訳者によってはレーヴィン、レビン)

気は優しくて力持ち、内向的で臆病なところはあるが、自分にもどんな他者にも常に誠実であろうとする信念を持つ素朴な男性。とある一地方の地主として農民とともに、不器用ながらも汗を流して働き、大自然と仕事と農民をこよなく愛する堅実な理想主義者である。
そう、彼はまさしく作者トルストイそのものだ。

実のところタイトルに冠されているアンナよりも、彼の方が作中での出番は多い。
いわば光と共に華々しく現れて、闇と共に散っていったあのアンナやヴロンスキーと比較すると、このリョーヴィンとキティ(次の節で詳しく述べる)は、あまりうだつの上がらないどこか暗いところから出てきて、天の川の燦然と輝く、美しく幻想的な星空の下へ、手を繋いで去っていくように見えた。

この結末から容易に分かる通り、この二人は見事に、あの二人と真逆の生き様を作中で見せたのだ。あの彼らの生き方の見事なアンチテーゼとして、この彼らは極めて重要な役割を担っているわけである。

リョーヴィンはその物語中での登場率と、トルストイの分身であるという設定と、それからおそらく大多数の内向的な読者に親しみやすい、あの誠意と善意の組み合わせにより、高い人気を博しているように思う。かくいう僕も彼が一番好きである。

だがこれらの人物設定から容易に読み取れるように、彼のいわゆる『自己肯定感』は序盤にはとても褒められたものではなかった。
そしてこのようなタイプの人物に、極めてよく見られるあのお馴染みの弱点も有している。つまり内心にそびえ立つ理想郷があまりにも完璧で美しすぎるのに、外的な現実世界がその理想郷とあまりにもかけ離れていて醜いため、愕然と落ち込むことが非常に多いのだ。

物語を半分くらい読んだ読者には、この四人に鮮やかな階級が生じているのに気付くかも知れない。つまり、リョーヴィンを振ったキティが、今度はヴロンスキーに振られ、さらにそのヴロンスキーはアンナに激しい恋心を抱く……という構図である。

いつぞやに、『魔の山』(トーマス・マン) のカースト的な序列の存在を記事にしたことがあったが、そういうものをここでも感じないだろうか。
リョーヴィンもそれに気付かない訳がなく、苦しめられてしまうのである。その時の彼の苦しみや悩みは読者としても非常に悲しいものがある。

しかし彼は持ち前の回復力 (いわゆるレジリエンス) の高さと、優れた洞察力から、仕事に懸命に集中して取り組めば、その苦しみを軽減できると直観する。

このように一心不乱に農作業に励む彼の様子は、悪く言えばただの昇華であるが、それと同時に、彼は仕事に対する誇りやプロ意識も、僕らの前に垣間見せるのである。それはしばしば美しい情景描写として、僕らの目の前に現れる。

この朴訥で誠実な、飽くなき求道者そのものの姿勢をやみくもに続けているうちに、いつの間にかキティが再び彼に想いを寄せているらしいことに彼は気づく。恐る恐る彼女に近づいてみる彼に、彼女は慈愛に満ちた優しい笑顔を見せたのだった。

キティ

可憐な魅力に溢れた純粋さと、やや情緒不安定ながらも、好きになった相手には一直線にアプローチする大胆さを併せ持つ、シチェルバツキー公爵家の未婚の令嬢である。
いや、令嬢というより、少女と言った方が当たっているかもしれない。物語序盤の彼女は、まさに一途な恋する乙女そのものなのだから。

近い気質を持つ女性読者の皆さんは、彼女に最も感情移入できるかも知れない。そして彼女の描写に共感しながら、色々な人生の一ページを、追体験できるに違いない。
そう、この『アンナ・カレーニナ』は、リョーヴィンとキティの成長物語として読むこともできるのだ。

ヴロンスキーへの失恋で病気になり、辿り着いた療養先の海外で、とても彼女には追いつけなさそうな崇高さを持つ女性を憧れの的とし、それを真似して徳を積もうとするキティ。
しかしやはり完璧には真似出来ない自分に気付き、自分自身に対する失望を味わい、むせび泣く。

このように彼女が作品内に登場している時は、いつも何かハラハラさせられるところがある。
だけどそこにはなにか常に、応援したくなるような無邪気な可愛らしさが、小動物のように隠れている。本気で読者の危機感を煽るとか、そういう類のスリルでは決してない。
邪推だが、彼女に叶わぬ恋心を持った男性読者諸氏も、きっと世界中に多いと思われる。

そんなキティは先程のリョーヴィンの二度目のプロポーズを喜んで受け入れる。幸せな結婚生活が始まったわけだ。そして幾度も危機に見舞われながらも、それを二人で協力して絆に変えながら、彼らは前へ前へと進んでいく。

キティの与える緊張感には本来の危険性はないと書いたが、一つだけ例外があった。キティのお産である。このシーンは読者である僕の手にも汗を握らせたほどだ。
無事彼女のお産が終わった瞬間には、僕もあたかも歯医者の手術を乗り越えた時のような、清々しいため息をついたほどだった。

フィナーレたる先程の星空の描写で暗示したように、リョーヴィンはある種の悟りにも似た深い信仰を手に入れて、悩み苦しみながら、それでも幸せを落とさないように気をつけて、愛するキティと二人で今を生きていこうと決意する。

では、キティが最後に手にした幸せは何だろう。それは息子ドミートリィと、そしてこのミーチャ(ロシア文学に頻出の、ドミートリィの愛称)への深い愛ではないか。
そしてちょっと深く考えてみると、リョーヴィンの信仰も含めて、それらは全て、キティのお産の時に得られた幸せのかたちだということに気付くのだ。

総合的な感想と問題提起

彼ら四人を眺めると、そこには実に簡単な対照が見られるだろう。ここで多分わざわざ僕が説明する必要はなさそうだ。
トルストイは『幸せな家庭はどこも互いに似ており、不幸な家庭はどこもその様相を異にする』と冒頭で述べているが、この言葉はどこから来たのだろう。

作中には沢山の家庭が出てくるが、幸せな家庭をリョーヴィンとキティの夫妻、不幸な家庭をアンナとヴロンスキーの二人に見立てると、前者に違和感を感じないだろうか。
ここまで読んで下さった皆さんも、おそらくリョーヴィンとキティの夫婦がありふれた存在だとは考えにくいのではないだろうか。そこにはおそらくもっと深い意味が込められているに違いない。

僕はこう捉えることにした。
『どんな家庭にも、幸せな時と不幸な時がある。幸せな時にはどの家庭も似ているのだ。不幸になると途端に多種多様な様相を呈するのだ』と。

だからトルストイは、あえて様々な家庭の不幸な時ばかりをタイミングよく切り貼りしていたのではないだろうか。そうすることで、ワンパターンな幸せばかりを描いていくよりも、より深く人生を表現することができる、そう彼は考えていたかのように、僕には思える。

さらに冒頭には、エピグラフとして、
『復讐はわれに任せよ われは仇を返さん』
というメッセージがある。

これを
「アンナは不倫という悪事を行ったのだから、神はアンナにああいう形で罰を与えたのだ」と解釈することは非常にたやすい。だが、どう考えてもそれだけではなさそうだ。

考えに考えても分からない時には、専門家やそれに類する人々の力も借りたくなるのが人情と言えそうだが、僕はあえてそれをしないことにする。
僕は小説を読むにあたっては、理屈よりも自分の感性を重視するからである。

この作品でも頻繁に書かれていたが、理性ではなく、理性を完全に超えたところまで辿り着いた時、はじめて見える世界もあるのかも知れない。
そんな世界に辿り着きたいとは全く思わないが、ともあれ、トルストイが残したこの二つの謎の箱を解き明かす鍵を、これから先も自己研鑽を重ねていく中で、ずっと探していきたいと思うのである。

終わりまで読んで下さり、ありがとうございました!

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