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キャッチャー・イン・ザ・ライの夜

サリンジャーの小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』やそれについて語っている本を読むたびに、ネット上に何か文章を書いて発信したいと思ったときの始まりのモチベーションを思い起こさせられる。

それは「過去の自分に届くように書く」ということだ。もちろん時間をさかのぼることは(現状)できないので、共通したところがある人に届くように書くということになる。

あの絶望的な日々。わずかにすら心が通じ合うことはない。理解者のふりをした加害者。対話のふりをしたなすりつけ合い。言葉よりも音が真相を表している。

何も信じられない。誰にも信じられていない。ただ憎しみだけが行き交う。

理由は違えど誰もが抱えているその憎しみ。透明になって密やかに、そして公然と伝わっていく。

その流れは必ずしもスムーズではない。むしろある場所に酷く蓄積されていく。

それを引き受けた者は聖人か?
いや悪人として裁かれている。十字架にかけられている。
無実を叫んでも誰の耳にも届かない。ひっそりと音もなく消えていく。

近くには誰の姿も見えなかった。ただ不気味な群れだけが無表情にうごめいている。どう見ても価値がなさそうなことに熱狂している。

黙ってみているしかない。時折赤い目がこちらへと向く。気が狂いそうになる。どこへも行けない。出口はない。牙が近づく。

そんな日々の中にいる人(過去の自分)に対して、手書きの地図を渡したいというのが発信の始まりのモチベーションだ。

その地図は全く役に立たないかもしれないし、そもそも何が書かれているのか読み取れないかもしれない。

共通の言語を持たないのかもしれない。同じ言葉を用いているようで、実はよく似た全く違う言葉なのかもしれない。

本当に大事なことは、100万人に1人くらいにだけ届けばいいと思っていた。分断されている孤独が問題になっていた。

馬鹿げていてもいい。間違っていてもいい。むしろそのほうがいい。いやそうでなくては駄目だ。正しさは人を救わない。

どこにも真の意味での正解がなかったからここに書きつけてんだ。捏造してやったんだ。

でもその捏造が、陳列棚にある正解を凌駕してしまったらどうする?

頭から離れなくなってしまったらどうする?

ある人は怒るだろう。しかし、有効な反論はできない。

ある人は怒るだろう。しかし、わきあがってくる情動を抑えきれない。

ある人は怒るだろう。圧倒的な現実を減圧するために、机上の空論に当てはめて理解した気になるだろう。そこからあふれ出したものを見て見ぬふりするだろう。しかし逃げきれないだろう。くたばれエセ評論家野郎。

ある人は怒るだろう。威張りたいだけだ。そもそもまともに取り合う気はないわけだ。こちらにもその気はないけどな。

戦争でなくとも深く傷つく。しかしそれは理解されない。わかりやすい型がないからだ。名前のない苦しみに対して「お前が悪い!」という罵声が投げかけられた。

その罵声はまだ遠くに残響している。湖の水面を雨が打つかのように、いくつかの波紋が広がった。波紋と波紋がぶつかってより大きな波紋になった。それはやがて世界地図を覆う雲になった。

金持ちも貧乏もそれぞれ違った地獄を巡る。簡単には幸せになれない。どこへ行っても影は付きまとう。



***

古い喫茶店に行きました。名前も知らないクラシックが流れていました。

そこでサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と、それを翻訳した村上春樹の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を読んで感じたことを改めて言葉にしました。何回かこれらについての話をしているけど、本当に面白いです。

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