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鏡の中のアカノ

――アカノという教師の口癖は、「皆と同じが素晴らしく、そこから逸脱した者は未熟な病人だ」というものだった。これは言葉の暴力として、54年の生涯で何度も繰り返された。そしてついに、自分のしていることに気づくことはなかった。


「これは聞いた話なんだけどね」沙希は前置きして言った。「なんか近くの学校に、アカノっていう頭がおかしい教師がいるらしいよ」
「えっ、なにそれ? 最近どこも頭おかしい人ばっかじゃない?」玲華は、ストローでグラスをかき混ぜながら言った。氷がカランカラン、と音を立てた。

「まあそうなんだけどさー、特別変な感じらしいんだよ。異常っていうか」
「なんか怖い話みたいだね、お化けとか出てきそう。でもたいてい怪談って尾ひれついてるよねー」
「いやそれが本当らしいんだって! 怪談じゃないって! 実話だって!」
「そう……わかったから、話してみなよ」


※本作には、様々な意味で暴力的な表現が含まれます。苦手な方はご注意を。ホラー要素はありません



アカノは、裕福だが厳格な家庭の箱入り娘として生まれ育った。一人娘だった。

お金で買えるものは何でも手に入れることができ、節約という概念を学習したのは30歳を過ぎた頃だった。それも他人の話で聞いたもので、自分自身とは全く違う下々の世界の考え方だと思っていた。アルバイトはもちろんのこと、コンビニで立ち読みすらしたことがなかった。

彼女の顔立ちは、美人でもなく、不美人でもなかった。栄養状態が良かったためか、肌は妙につやがあった。ただ胸は小さかった。彼女はこれを一つの欠落だと捉えていた。
自分でそんな風に認識している項目は他にも山ほどあって、それを埋めるためには山ほど結果という石を、積んで、積んで、積んでいかなければならないと思っていた。


そして、アカノの家庭のもう一つの特徴は厳格だということだった。門限に始まり、趣味や服装、付き合う友達までが厳しく、徹底的に管理されていた。両親によるこの管理は、幼少期から30歳を過ぎるまでずっと続いた。

それは厳格だというより、偏執的だといったほうが正しいくらいだった。勉強やその他のことでも、常にトップでない限り褒められることはなかった。私立中学のときの定期テストでクラス2位を取った日には、父親はアカノを怒鳴りつけた。母親も彼女を擁護することはなかった。どちらかと言えば、父親の側の人間で、母親もアカノを詰ることがたびたびあった。

アカノは物質的には満たされていたが、精神的にはいつもひどく飢えていた。精神の飢えに比べたら、欲しい物がいくら手に入ろうとも嬉しくなかった。その物質的豊かさはアカノの中で生まれた時から変わらない当たり前のことであり、特に喜べないことだった。それよりも、両親にどうしても認められたい、褒められたいといつも考えていた。本当に四六時中のことだった。


しかしアカノの頭は悪くはないが、特別に明晰というわけではなかった。教育熱心な私立中学・高校でクラストップの成績を取ることはかなりの困難を伴った。どんなに努力しても、何度も失敗した。

ただ彼女は、両親の偏執的な性格を受け継いだのか、異常なまでに頑固で粘り強かった。やり方を変えたり、別の方向性を目指すということは全くアカノの視界には入らなかった。1日の勉強時間が日に日に増えていった。

そして中学3年生のころ、1日12時間勉強することを当然の習慣としてからは、彼女は一貫校の高校を卒業するまでクラストップの座を明け渡すことはなかった。ただの一度も。
戦車のように力強く、しかし盲目的にひたすら前進していた。アカノの人生に一貫している、強い手柄への執着はこのように養われた。何一つとして他人には譲りたくなかった。彼女にとって、100点以外は0点と同じだった。


そしてこういう人間にはよくあることだが、他人にも同じような厳しさを求め、そうしない者は「甘えている馬鹿」「未熟な人間」だと決めつけていた。つまり彼女の目に映る、99.9%の人間はそんなレッテルを貼られていた。

アカノは誰に何を言われようとも、自分の独善的な考えを絶対に曲げようとしなかった。それは確信めいた、決して動かない巨岩の様だった。重機で押しても微動だにしないのだろう。

また、そうせずにはいられなかった。そういうことにしておかないと、自分の中のすべてが崩れ去ってしまうかのような感覚があった。それが怖くて仕方なかった。自分の今までの人生が間違っていたなんて、認めたくなかった。現実との間で齟齬が生じたときは、自分の考えではなく、現実のほうを修正する習慣が自然と強まっていった。

例えば、「未熟な人間」としていた者が、明らかに自分より成熟した柔軟性を発揮しているところを目にしたときは、それは見せかけだけの幼い態度が見え透いていると自分に言い聞かせていた。欠点に思える部分ばかりを、死にもの狂いでかき集めるようにしていた。
そして、アカノは自分をだますのが得意だった。自分で自分をだましていることを忘れるのに時間はかからなかった。人間観についても、100点以外は0点と同じという思考回路が敷設されていった。


やがてアカノの中で自己評価がいびつに膨らんでいき、他人を見下し、自己と他者の間の境界線を深く濃く引くようになっていった。自分は一点の曇りもなく正しく、常に100点満点であり、異論を唱える者は未熟な馬鹿だと考えるようになっていた。そういう者は、教育的な修正が必要な人間だと判断していた。当然、学校生活の中で軋轢が生じるようになっていった。


穏やかな校風の中高ではあったが、次第にいじめが始まった。緩やかに始まったそれは、時間が経つと、アカノの靴に画びょうが忍ばされていたり、机やノートに落書きされるというものになっていった。
よくある話だが、周りにとっては面白がってしていることで、いじめという自覚はあまりなかった。いたずらに遭遇するたびに、アカノは戸惑い、激怒していたが、誰にそれをぶつけるべきかがわからなかった。それは集団的に、密やかに行われていたからだ。そんな反応をクラスメイトが遠巻きに笑っていた。アカノにはもう、全員が敵にしか見えなかった。孤立無援だった。


いたずらの中でも落書きされることが一番彼女を困らせた。親にはそれを隠し通さなければならなかったからだ。ここでももちろん、1点の失点も許されないのである。


しかし、アカノはここでも持ち前の粘り強さと忍耐を発揮し、高校を卒業するまでこのいたずらに耐え抜いた。成績もトップを維持していた。
もちろん代償もあった。アカノは周囲の人間と関係を築く術を全く学習できなかったのだ。ただただ、見下すことだけがひたすら繰り返されていた。現実と乖離した自己像ばかりが、天へと昇るかのように高く、高くなっていった。

そんな彼女を褒めるものはいなかった。クラスでトップが安定すると、両親は次に学年トップを取ることを彼女に要求した。それはどうしても達成できなかったからだ。
自己評価が高い一方で、自分は無能だという拭いがたい意識が彼女の脳裏に焼き付いていった。彼女の人生は、その意識とのデッドヒートとなった。


大学に入っても、この精神生活と実生活の習慣は全く変わることはなく、高校の延長線として過ごしていた。
しかし、大学と高校では大きく違うことが一つあった。それは学業の成績がそれほど大きな価値を持たず、友人の多さや恋人の有無が大きく評価されるという価値観へとシフトしていたのだ。

この事実に触れたとき、アカノは顔面蒼白になった。世界から地面が消失して、どこまでも落ちていくかのようだった。

しかし、彼女はすぐさま持ち直した。自分の考え方ではなく、現実の方を修正したのだ。
自分一人が正しく、周りの人間が「未熟な馬鹿」だから気にする必要はないとまたもや言い聞かせていた。ひたすらに目ざとく粗探しをしていた。ここがダメ、あそこがダメ、という具合に。そしてレッテル貼りをして自分を慰めていた。ごく一部の特徴から、他人の人間性の全体を(自分の中で)決定していた。


そしてその観念は固定化され、再び不動の巨岩となった。それは彼女にとって凄まじい重荷であるのと同時に、彼女を支える屋台骨となっていた。アカノは普通の1日を生きるのに、あまりにも執念深い努力を必要とするようになった。

当時の彼女が一番苦労していたのは、異性からの視線と、自分の異性への関心だった。しかしそれらは両方とも彼女の心の中で殺され亡き者にされた。自慰の回数と激しさだけが増していった。親以外から、アキという下の名前で呼ばれたことは、生涯を通じて一度も彼女の記憶にはなかった。


大学3年で進路を考えたとき、アカノは他人を支配し、操作することに強烈な関心を持っていた。そのことについて考えると異常な好奇心が湧いてきた。

そして彼女は学校の外に出るのが怖く、大人を相手に出来る自信もなかったので、高校教師になることにした。それは自分の学校生活をやり直すという隠れた動機や、10代という若さへの同化の憧れと煮えたぎる嫉妬によるものでもあった。


――こうして"アカノ"が誕生した。



アカノは新任の高校教師として勤務する最初の日、「厳しいけど暖かくて懐が深く、生徒から慕われるコミュニケーションの取り方が上手な教師」を目指す決意を胸に登校した。今まで誰とも人間関係を結んだことがなかったからだ。

そして、ザルのような教員試験をなんとか擬態して突破したことで(父親のコネも結果に色濃く影響していた)、彼女は自分の能力に絶大な信頼を置いていた。


教室で初めて、生徒に「先生」と呼ばれた時、自分のことを指しているという戸惑いと、若干の居心地の悪さと、オーガズムに達しそうな快感を覚えていた。

しかし当然ながら、日を重ねるにつれて初日の決意は残酷なまでに引き裂かれた。高校生にもなれば、生徒は教師の資質を非情なまでに見抜く。
アカノの個人史を知るまでもなく、彼女の凝り固まった偏執と、歪みに歪んでもはや原形をとどめていない歪な心は、嘲笑の対象となった。生徒たちは、自分達よりもアカノが幼いことを感じ取っていた。


アカノの高すぎるプライドと低すぎる人間観察力は、生徒たちを見下し、年齢以上に子ども扱いさせていた。
彼女の対応は見え見えの演技と、人を騙して操作しようとする悪意に満ちており、しかもその態度が周囲に伝わっていないと彼女は思っていた。

生徒たちは彼女の裏の思惑に気がついた上で、からかって遊んでいた。彼女はそれを自分が教師として受け入れられていると勘違いすらしていた。作り笑いさえ絶やさなければ本心は隠せるものだと思っていた。自分は他人の本心なんて全く見抜けないので、他人も同じものだと思っていたのだ。


彼女が担当した英語の授業は、わかりにくいとの評判だった。アカノの英語力は他の教師に比べてむしろ高かった。突出していると言ってもよかったが、教え方が致命的に下手だった。英語は意思疎通の道具だ。単独では意味をなさないのである。生徒に何かを教えたい、尊敬と人気を集めたいという気持ちばかりが強くて、実際の生徒の姿が全くというほど見えていなかった。彼女の手法はただただ強引で稚拙だった。どの面においても。


そして折に触れて彼女が繰り返し語る道徳は、幼き理想論と浮世離れの感があまりにも強かった。時代錯誤だった。生徒たちはそれを聞かされるたびに、「そんなことは全員小学生の時に聞いて、その上で現実と折り合いをつけてきたんだ」と辟易し、内心馬鹿にしていた。

また、アカノには当たり前のことや些末なことを大きな手柄のように語ったり、明らかに間違ったことを満足げに断言していた。
高校生に向かって、真顔で「悪い人はいない、世界はユートピアだ」というようなことを言っていた。教室からは思わず笑い声が漏れていた。そのたび彼女は憤慨と羞恥で顔を真っ赤にしていた。

それでも彼女はしつこく「そうだよね?」と同意を求めた。自分と違う考えは間違ったものであると断定し、「教育的な修正」を試みた。
余裕がなかったのだ。少しでもネガティブなものを目に入ると、捕らえられて逃げきれないと感じていた。だからそれを完全に抹殺しなければならなかった。世界に悪の存在が認められてはならない。



ある日、学校でちょっとした事件が起きた。男子生徒同士の喧嘩が起きたのだ。

双方の口の端に血がにじんでいた。肩で息をしていた。人だかりや野次馬も、遠巻きに趨勢を見守っていた。生徒は二人ともアカノのクラスではなかった。学年も違った。まだほかの教師は到着していないようだった。

アカノは興奮に身悶えていた。こういう場面を待っていたのだ。
彼女の道徳観は、とにかく二人とも悪い人間で自分が正義の裁きを与えないといけないと絶叫していた。マグマのような衝動に突き動かされていた。溺れる者はつかむ藁を選べないのであった。

彼女は普段から言っていることと、実際の考えや行動が真逆だった。そして彼女の中では、自分が嫌いな人間が紛れもない悪だった。それが唯一にして絶対の判断基準だった。そして一度下した判決は何があっても覆ることはなかった。恣意的な第一印象が全てだった。


喧嘩をしている二人の男子生徒は、一時的に興奮し、また精神的に傷ついていた。原因には家庭の事情や、人間関係のもつれ等もあったようだ。片方の生徒は、父親が亡くなったばかりだった。

つまりその喧嘩は、複雑で多面的な心をもった人間故に起こった衝突だった。自然なことであり、10代の精神にとっての貴重な栄養ですらあった。しかし一面的な心しか育てられなかったアカノにはそれが理解できなかった。

また、彼女の中の「正義の衝動」が状況の理解をさらに妨害した。アカノは男子生徒の一時的な状態変化と、もともとの性格とを分離して捉えることが出来なかった。やはり第一印象が全てだった。まるで誕生したばかりのヒナが、最初に見た生物を親だと心に刻むようなものだった。

アカノは男子生徒の間に割って入った。ドラマで見たような名教師の振る舞いの、見え見えの模倣だった。自らの余裕と偽りの受容・寛容をアピールするためか、不自然ではりついたような笑顔を浮かべていた。

「どうしたの、ぼく? 先生に話してみない?」彼女はその表情をキープしたまま言った。
「……ぼく?」渦中の二人の男子生徒、斉藤と中野は呆気に取られた。人だかりもざわめいた。


「まだ子供なのかもしれないけど、喧嘩は悪いことだよね?」
「……」誰もが沈黙した。閉口したと言ってもよい。赤い炎が青く変色していくような張り詰めた空白が、嵐の前の予兆を感じさせた。


アカノは二人に尋問し、取り調べを始めた。可能な限り匿名的な立場からの傲慢な物言いだった。自分のことを棚に上げていた。男子生徒たちは初め、アカノの人格を知らなかったが、彼女の口から飛び出す言葉が増えるにつき、次第にアカノの性向を把握していった。

「気持ちはわかるって! わかってるから!」彼女の不自然な笑顔はまだ維持されていた。「君たち、力も強いし、体も大きいし、優秀なんだよね」

チープなご機嫌取りが始められた。彼女はとりあえず他人を褒めておけば自分が受け入れられ、また自分が褒めた行動を他人が繰り返すようになるという画一的な信念を持っていた。それは自分自身がそうだったから。褒められることを渇望していたから。

「でもなかなか出来る事じゃないよね、謝ることって。出来たらえらいよね」彼女は言った。

「一体何が分かってるっていうんですか?」それを無視した斉藤は、最初の言葉にだけ反応し、視線をまっすぐ見据えて問う。一方、中野はしばらく様子を見ることにしたようだった。

「君たちのことだよ。10代の頃はみんなそんな感じだよね。すぐ甘えたがる。苦い薬より心地良い嘘が聞きたいんだね」
「だから何を?」

「言葉足らずだね。国語の成績は大丈夫? 英語もまずいかもね、ふふ」アカノは鬼の首でも取ったかのようだった。
「……すぞ」斉藤はかすれた声で吐き出した。

「君は人と話すのが苦手なんだね。もう一度"ちゃんと"人間関係をやり直さない? まだまだこれからだよ。みんなと同じようにできるって! やればいいじゃん。"挑戦"する! それが大事!」この世で最も醜悪な、満面の笑みを浮かべて彼女は言った。この笑みが複数の要因から成立していることは言うまでもない。彼女の快感は高まっていく。


「……お前、なめてんのか?」斉藤はアカノの胸ぐらを掴んでいった。憤怒の表情だった。
「……何してるの! あなたのために言ってあげてるんだよ?」アカノは動揺した。表に出さないようにしていたが、少し感情が漏れ出たようだった。


「何のためにもなってねえよ、殺すぞ!」
「先生に向かって! 退学にするよ?」彼女は言いながら、膝が震えていた。


そのとき斉藤の中でガラスのような何かが割れた。彼は傷ついていた。消耗していた。そして、せきを切ったように激しい濁流が心の中にある様々なものを押し流していった。

斉藤はたくましい腕でアカノの肉体を突き飛ばし、コンクリートの壁に叩きつけた。そして腹に向かって鉄拳を放った。その一撃には複雑な、たくさんの感情が込められていた。やり場のない思いが不器用に込められていた。

それも一発では気が済まなかったようで、計3発が叩き込まれた。絞り出すような力動があった。


アカノは鈍いうめき声をあげて崩れ落ちた。

「消えろや……本当に! お前みたいなやつがいるから、駄目になるんだよ。何もかも!」斉藤は息を切らしながら言った。


斉藤の喧嘩相手の中野は、ここまでの間、趨勢を見守っていたが覚悟を決めた。
地に這いつくばっているアカノの腹を再び、思い切り靴で踏みつけた。容赦のない力がアカノを襲った。二度、三度とそれは繰り返された。

「わかったようなことを言うな。お前が一番何もわかってないんだよ。邪魔すんな」中野は言った。アカノは何も言い返せなかった。肉体的にも精神的にも。


続けて、中野はアカノの顔を踏みにじった。スニーカーの裏の黒ずんだ汚れが、彼女の頬にこすり付けられた。

「"ちゃんと"とか、"挑戦"だとか、お前は何重に人を見下してんだよ。本気で殺すぞ?」


床のアカノはひどく動転していた。恐怖し、何故正しいはずの自分がこんな目にあうのだろうと思っていた。呆然としていた。理解不能な現象の奔流が彼女の精神を侵食していた。
名前を付けたい。怖い。レッテルを貼りたい。しかし今は。目の前が暗くなっていく。


……ふと、自分の体の下の方で、生暖かいものが広がっていることに気づいた。それが失禁によるものだと理解するのに若干の時間を要した。


そして周囲の人だかりから、シャッター音が間断なく発せられ続けた。心臓が、ドクンと強く脈打った。
視線を上げることは出来なかったが、笑い声は耳を塞いでも聞こえてきた。

「あの人がうわさの?」
「そうらしいね」
「前から思ってたけどあいつ、自分しか見えてないんだよな」
「そんなに自分を認めてほしかったのかな」
「本当にちゃんと逃げずに挑戦しないといけないのはあの人なんだよな」
「結局、全てが自己紹介だったね」
「あいつが彼らの何を知ってるっていうんだよ、ほぼ初対面じゃねえか」
「あれはね、自分が復讐したい過去の誰かに、目の前の人を仕立て上げようとしてるんだよ」
「そういう病気なんだね」
「てか臭ってきたし」


パシャリ、パシャリという音が聴こえる。太もものあたりが冷たい。
……彼女の意識はそこで途切れた。



その日の光景は、携帯端末を通じて写真や動画・録音等で共有され、生徒たちの間を駆け巡った。

アカノはどうしても学校には行けなくなった。人生初の不登校だった。
それは自分が一番見下していた行動だった。つまり、原因を糾弾する責任転嫁が必要になったということを意味していた。


彼女はプライドをひどく傷つけられ、男子生徒たちの評価を地に落としていた。凄まじい未熟さと病的な性質を持った人間だと結論付けた。何か精神に異常でもあるのだろうかと考えを巡らせていた。
そして教師全体をなめている生徒だと判断した。実際に斉藤と中野が憤っていたのは、アカノに対してだったが。彼女にはその事実は受け入れがたかったようだ。受け入れられなかったので、こういう形になったのである。



それから数か月後のある日(アカノは休職からなんとか復帰していた)、またもや事件が起きた。前の事件とは別の男子生徒がアカノの私物のかばんに落書きをしたのだ。「処女子供先生」と。

アカノは異常なほど激怒し、頭に血を上らせて、クラス全体から犯人探しを始めた。そのやり方は徹底的なまでに冷酷だった。彼女の額に浮かんだ汗が、窓からの風に吹かれてヒヤリとさせていた。沸騰しそうな頭と、全身を貫く悪寒がアンバランスだった。

まず金にものを言わせ、かばんから指紋の採取を専門家に依頼し、生徒全員から指紋を取ってそれと照合した。
しかし、一人にまで絞り込めなかったので、生徒たちに密告した者には10万円を渡すと宣言して、小さくカットされたわら半紙を配布した。彼女にとっては金しか現実に干渉する力がなかったのだ。


2人の男子生徒と、1人の女子生徒が裏切り、犯人の名前を書いた。アカノはそれに満足し、その男子生徒を「未熟な馬鹿」「ただの病人」とし、その言葉をそのまま男子生徒のノートや机に書いた。そしてそのまま1か月間生活するように言った。

これは教育的な意味があることだと声高に主張した。何度も何度も大きな声で主張した。しかし、生徒たちは当然、裏の意味に気づいていた。


自分の心の中で起きていることに気がついていないのは、教室の中でやはりアカノただ一人だった。
彼女は自らにいたずらをしてきた男子生徒に罰を与えて、恍惚の笑みを浮かべていた。そして自分はやはり最高の教師だと、一人でしきりにうなずいていた。


常に冷静で、時に厳しく、生徒のことを第一に考えて暖かく、前向きで、快活で、懐が深くて、柔軟で……。


――この話はここで終わりますが、あなたの近くにも、実はアカノがいるかものしれません。息をひそめ、必死に擬態しながら……。


(終)


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