見出し画像

憎しみのエネルギーで発電して儲けたい。(あるいは日記的なコンテンツの価値とは?)

今の世の中には、あまりにも強い憎しみを抱いている人がたくさんいる。よくもそんなに熱烈なアンチ活動ができるな、と思わせるような人がたくさんいる。

これは他人事ではなくて、私自身もその中の一人だ。今のところ特定の個人を攻撃することはしていないけれど、いくつかのトピックについて、並々ならぬ憎悪と殺意を覚えるような意見や行動がある。

関連note私は何かを殺さないために、何かを攻撃する文章を書いている(公式のコンテンツ会議でも紹介されました!アッピルすみません。書くことでどこかへたどり着きたいと思っているので)


凄まじい量の憎しみが渦巻いている国だ。じゃあ、これを簡単に何か「より有益なものへと変換」出来たらみんな幸せになれるんじゃないかと思った。

(「どうしようもなさ」「行き詰まり感」がさらにそういう感情を増幅させているように見える。自分が幸せになるよりも、嫌いな奴を不幸にしたいという気持ちのほうが強いというのは共感する。正直なところ)


その変換の例が、タイトルにもした発電だ。発電

科学的な仕組みは全然わからないけど、人間が憎しみを感じたとき、身体にも血流や体温が変化したり、いくつかの脳内物質が増えたりしているのだと思う。たぶん。


それを利用した発電ができれば。そしてあの強烈なエネルギーを、私たちがいまnoteを見るのに使っているスマホやパソコンを稼働させるために使えたら。


あるいは、それでもまだまだ憎しみのエネルギーが有り余っているのなら、その電力を売却できるとなおいい。

辛い経験をしてきた人ほど長者になれるこのシステム。どうでしょう?


It's a perfect idea!!

この提案は完璧だ。ただ一つの問題点を除けば。


その問題点とは、実現するための筋道が全く立っていないことだ。


まあ、「こいつは何を言っているんだ」という感じですよね……。


現実的にできそうな、怒りや憎しみの変換

自分にとって、憎しみのエネルギーを何か有益なものに変換する方法とは。

これは各々の適性などによって全く変わってくるとは思いますが、私にとってはやっぱり「書くこと」が有効だと思っています。

「書くこと」の癒し効果は大きい。

フォローしてくれている人、直接憎しみをぶつけた内容ではないけど有料noteを買ってくれた人もいるので、それなりの価値は生み出していたのだと思う。そう思いたい。


自分が書いたものに価値はあるのか? あるとすればどういう種類なのか?

話は少し変わりますが。

例えばドストエフスキーの小説やアインシュタインの論文なら、人類にとって大きな価値があるとされ、歴史的に受け継がれていくことになる。でもその陰に、時のふるいで消えたものがたくさんある。

そこまでスケールを大きくしなくても、自分の書いたものには値段がつかない(つけても売れない)場合は。

そんな無名の人間が書いたnoteにどんな価値があるのだろう。サービスとか道具などを作るんだったらわかりやすいけど。最近よくそれを考えている。


ノウハウの提供なら、そのノウハウが有用なものであればその分の価値はありそうだ。

じゃあ今書いているこのnoteのような思い付きの話とか疑問とか、日記的な内容には価値があるのだろうか。あるとしたら、どういう価値なんだろうか。


日記的な内容の価値とは?

自分のこととして考えると、自虐的になりすぎてフェアにジャッジすることが難しいという面があるので、有名人じゃない一個人の場合として考えようと思う。


私はふだんから、noteでもブログでもそれ以外(配信や掲示板とか)でも日記的な内容をよく見ている。そこには有用なノウハウや答えもなければ、高度な芸術性や技術もたぶんない。

書く技術が高ければ、単純にそれが面白さに直結するというわけでもない。技術の高さは感じられても全くつまらないものもあれば、下手でも面白かったりもする。


そこにあるのは、きっととても個人的なものだ。そこにその人の人柄が感じられたり、苦悩や試行錯誤が感じられれば(答え的なものはなくとも)私は面白いと感じるし、また見たいと思う。

自分の好みとしては、その人柄が社会的に不適切なものであるほうがいい。そして攻撃的であるほうがいい。怒りや悲しみを露骨にあらわにしているほうがいい。


逆に、「なんか善人っぽい人」には興味がわかない。当たり障りのない人をわざわざ見たいとは思わない。

「なんか善人っぽい人」。ある程度ニュアンスは伝わってるかな。どうなんだろ。


価値・意味・明確化に対する消耗、人間性の摩耗

自分のツイッターではブログノウハウやアフィリエイト、ライティングに関するアカウントを中心にフォローしてきたけど、近頃はタイムラインを開くのがおっくうになってきた。最後に開いたのは一週間くらい前だろうか。


一時期は食い入るように見ていたけど、最近はなんかね、そういうツイートが「戦車から砲弾が打ち出されている」かのように感じられることすらある。


そういうアカウントを批判しているわけではなく、自分が住む世界ではなくなってきたというような感覚がある。

リアルからブログへ、ブログからnoteへと軸を移してきたけど、気持ちの上でもそうなってきたのかもしれない。


そして「不適切な」日記的コンテンツとは、常に関わりがあった。いつも救われていた。


無名の個人がただ生きていることは、赤の他人からみて価値があるのか?

話を戻すと、日記的な内容に価値があるかは、最終的に無名の個人がただ生きていることが赤の他人からみて価値があるのか、ということにつながっている気がする。


自分の感覚としては、やはり上記のような相性のいい(不適切な)人の日記は読んでみたいと思う。

そしてインターネットには空間という壁を突破する力があるので、適切な努力をすれば、ほとんど誰でも自分と相性の良い人を少なくとも何人かは見つけることができるんじゃないかと思う。書く側も読む側も。


ここで強調しておきたいのが、なんかポジティブで有益っぽいことを書くのがよいことで、ネガティブな本音を書くことはダサいしはばかられるみたいな雰囲気(ネットで何か書いてる人なら多かれ少なかれ感じてると思う)ってまだあると思うんだけど、自分の感覚としてはまるで逆だ。

近頃は妙にポジティブな人生哲学や、現実離れした(思考停止の)前向きさみたいなものを見ると疲労感を覚えたり、なんなら不快感すら抱く。


本当に見たいのは、どこにもたどりつきそうにない、無益で純粋な怒りや憎しみ。徒労。失敗。喪失。哀しみ。怠惰。諦め。絶望。嫉妬。その類。

無味乾燥でキレイなものじゃなく、もっとざらついていて不格好なもの。

あるいはその人の、他の人とは違っている部分だ。同じ部分ではなく。


こういうコンテンツが増えてほしいと思う。

今のところ、たぶん儲からない気がするけど。

(仮に成功したら、おそらくそのコンテンツは死ぬと思う。ロック・アーティストが売れてメジャーに行く。深夜番組がゴールデン帯へ移動する。そんな感じだ)


私自身もどういう価値があるのか判然としない文章を書くから他人事じゃないけど、こういう不適切な日記的コンテンツには満たされない人間を救う力がある。ひどく過小評価されているということだけは、はっきりと表明して伝えたい。

(noteに書いているので文章を書くというほうに寄せているけど、動画、リアルタイム配信なども含まれる)


……こんなこと伝えられても仕方ない、御託並べるより偉そうに語る「お前」が金をよこせや、って思われるかもしれない。お金ないけどたまに投げてます、すみません。


どうすればいいんだろうなぁ……。「価値」って何なんだろう。大学生の頃に大学図書館にこもって哲学の難しい本を死ぬほど読んだけど、結局わからなかったことを思い出した。

人生哲学とは違う学問としての哲学は、問いを細分化したり思考を慎重に進めさせる作用はあれど、その分むしろ結論や答えからは遠ざかるように感じられた。

哲学としての議論の内容はほとんど忘れてしまったけど、そのエッセンスはまだ自分の中に息づいてる気がする。


タイトルの話に戻るけど、負の感情で発電できるようにしてほしい。

やはりそう願った。

白い灰が信号機の上に降り積もる、モノクロームの街の中で。


あとがきと振り返り

自分は直観タイプなので、話題が飛躍することがよくあります。

今までは話題がそれたら2つのnoteに分けていましたが、その片方のnoteは結局投稿せずに下書きに眠ることが多いので、今回はそのままにしておくことにしてみました(毎回一つでも新しい取り組みを。どこかへ進みたい)。

少し前にキーボードではなく音声入力で文章を書く、ということが話題になったけどそんなイメージ。このほうが肩肘張らずに書けるし、結果として生産量が上がる気がする。


ネタ切れに困った記憶はないけど、きっちりと整えて仕上げるという作業がとても苦手だということに最近気づいた。

しっかりと仕上げるのは、それが必要な機会だけでいい。毎回じゃなくていい。変な自分ルールに縛られて、投稿量が減りその分下書きが増えていたのでそれをカイゼンすることにしました。


あと「荒唐無稽な異次元アイデア集」というマガジンを作ったので、アカウントをフォローする気にならない方もここだけでもフォローしてみてね。第2回の予定は未定だけど、むしろお互いにそれくらいの感じで。

ツイッターもやってます。自分の最近のツイートを一つだけ。140字制限が厳しくて、なんか偉そうになっててすみません。


もっとふざけないとね。なんか最近、真面目にやればやるほど失敗と非効率が増え、ふざけ半分で遊ぶくらいのほうが上手くいってる気がする。

だから軽い気持ちで書いていくので、不適切な表現があっても自分が攻撃されているとは思わないでほしい。

対象を絞り込んで書く、自分のイメージをそのまま相手に伝えるということは難しいことです。そんなふうに自分を振り返る人はディスってません。


また、この下のクリエイターサポートのところにもなんか変なことが書いてあるけど、分にとってはれが通運転脳みの働きであり、常識的に書くほうが努力が必要になってくる。


行動力なさすぎで、買ってから長い間放置してるストレングス・ファインダーさすがにやろうかな……。

"さあ、才能(じぶん)に目覚めよう、強みの生かし方が資質ごとにわかる!"って表紙に書いてあるのがキーボードの前からでも見えるなぁ……。


じゃあまたね!

>なんだこの締めのあいさつ、友達のつもりかよ。

失礼しまぁす。(ちっ、うっせーな。)反省してまーす。

頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha