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【ショートショート】僕だけの真実は僕にしか見えないという孤独

真夏の熱帯夜、僕はトイレで歯をがたがた言わせながら震えていた。
もちろん、寒いわけではない。具合が悪いのでもない。
ただ、なぜだか体が自分の制御出来ない部分で激しく何かに反応を示しているのだった。
僕は自分の体が震える通りに尿も同じ方向に飛んでいくのを眺めて不思議に思いながらも、この時はまだ睡眠欲の方が勝っていた。
トイレを済ませ、ドアを開けると、漆黒の闇が広がっていた。
夜の月明かりや、街灯の灯りまで消えてしまったかのようだ。
まるでこの家だけが、もう二度と明けない、別の夜に取り残されてしまったかのように。
「おかあさーん」
僕はあまりの心細さに、トイレから一歩も出られなくなった。
なぜだか一歩でも動けば、時空の歪みにでも巻き込まれて二度と戻ってこられないような、途方も無いような不安が襲ってきたのである。
「おかあさーん」
もう一度大きめの声で呼んだ。語尾を間延びさせることによって、事態がそこまで深刻ではないんだぞ、と自分に言い聞かせるように。
暗闇の向こうがゆらっと動いた。
僕の心臓は、その瞬間、思い切り収縮し、ゆっくりと血を吐き出した。頭のてっぺんから痺れるような緊張がしたたり落ちて、僕の体から体温を奪っていく。
何者かは、暗闇の向こうでこちらを伺っているようだった。
僕にはそれが不気味でたまらなかった。
僕に危害を加えたいのなら、怖いことは早く終わらせてほしいし、
実は特に悪い存在では無いのなら、今すぐ僕の誤解と不安を解放してほしい。
白とも黒ともつかないその不気味さが、暗闇の向こうで不穏に潜んでいる、ということが、僕にとっては目の前に真っ黒な悪者が立ちはだかるより怖いことだった。
突然、暗闇の向こうで空間が揺らいだ。
何者かは急にサッと消えてしまった。一瞬のことだった。
漆黒の暗闇には、やがて夜独特の青い明るさが戻ってきて、窓の外には街灯がぽつりぽつりと灯り始めた。
「どうしたん」
何者かがいた暗闇の奥から、母親がやってきた。
トイレのドアを明けたまま、外に出られず立ち尽くす僕を見て、怪訝な顔をする。
「何してん、あんた怖いわ、電気もつけずに」
母は僕の顔をおそるおそる覗き込み、僕は何も言えずに母の顔を見返した。母はそのまま僕を抱きしめ、僕は抱きしめられた腕の中で、すっかり冷たく痺れた手足の先々に、温かな血がじんわりと巡っていくのを感じていた。
母の肩越しに、目の前に広がっている青い暗がりをぼんやり眺めながら、何者かの姿を探したが、もうどこにもいないのだった。
僕はその後母に手を引かれ、同じ布団の中で安心しきって眠りについた。

その後の人生で、僕は何度か、何者かに出会うことになる。
それは、母の両親が死んだ時。
母は「お母さん、一人ぼっちになっちゃったよ」と言って僕の前で泣いた。僕はまるで自分が透明人間になったような気分でその様を眺めていた。僕とお父さんがいるから大丈夫、と放った言葉も、母を勇気づけることなどなく、
あの人が一体私に、何をしてくれると言うねん、と言って泣いた。
僕は泣きじゃくる母ごしに、再び何者かを見ていた。
あの時のような不気味さや、不穏さは感じられず、僕はそれに向かって肩をすくめてみせた。

次は、長年連れ添った妻が不倫をしていたことが分かった時。
僕の心の土台がいとも簡単にカタカタと音を立てて壊れ、僕は自分の幸せがいかに紙一枚のように薄く繊細であったかを思い知った。
必死に言い訳と嘘を並べ泣きわめく妻の向こう側で、何者かがこちらを見ているのが分かった。
僕は初めて、その存在がいてくれさえすることに、ありがたい、と思い、感謝して微笑みかけた。

僕はまだ、経験していない。
母の死を、自分の死を、世界の滅亡を。
その時僕は何者かに、一体何と声をかけたらいいんだろう。
今の僕には、まだ分からない。いや、分かる日なんて、来ないだろう。
だから見えなくてもいつも何者かを感じていたい、と思う。
僕が僕であり続けるために。

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