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【ショートショート】死人に口無し

鏡の向こうから、ぎょっとするくらい醜い女がこちらを見ていた。
血色の悪い唇には吹き出物が膨れ上がり、顔は全体的にむくんでいる。
髪がボサボサどころか決して誰にも言えないことだが一部分抜けて落ちている。いわゆる10円ハゲというやつだ。(これに関しては本当にどうしたら良いのか分からない)
上を向けば、顎下の皮膚の中を通るリンパが痛む。
一体体内から何をそんなに排出したいのか、とりとめもなく水のような体液が鼻の奥から出続けている。
一言で言って、私はボロボロなのだ。
ふとガサガサの左手に目を落とす。
ちょうど薬指の根本だけ、ぶつぶつと気色の悪い出来物が出来たり、それが潰れて血が滲んだりしている。
長年そこにはまっていた指輪を無理やり外された時から、私の体は全細胞総出で、「それは嫌だ」と叫んでいるようだった。

「この人を見つけたとき、なんて寂しい人なんだろうって思いました」
女はおっとりとした口調で文章を書いていた。
「雨に濡れて、行く当ても無く、途方に暮れていました。一体どんな人生を送ってきたらこんな孤独になってしまえるんだろうって。今でも鮮明に思い出せるほど、衝撃的でした」
ツッコミどころが多すぎるのだが、私はじっと黙って文字を追い続けた。
「私達は少しずつ心を通わせていきました。それはとても怖いことではありましたが、不思議なことに、途中で投げ出したり、辞めたい、と思ったことはありませんでした。今思えば、そこには既に愛があったからなんじゃないかと思うんです」
風がびゅう、と吹いてカーテンが大袈裟に部屋の中に吹き込んでくる。たかだか春風ごときにゆらめいたカーテンのせいで、観葉植物の鉢が倒れ、堆肥入りの土がフローリングにばら巻かれた。それはまるで水風船が些細な衝撃であっという間に破裂して無くなってしまうのと同じようだった。
私はスマホの画面から顔を上げ、その光景をまるで他人事のように眺めていた。
顔面崩壊した、ブスでデブなバツイチ女がパジャマ姿で、やけに広い部屋で一人、ぐちゃぐちゃになったフローリングを平日の昼間に見ている図。
先程の春風の余韻で、1年中つけっぱなしの埃だらけの風鈴が鳴っている。

「死人に口無し」
ボコボコに腫れ上がった唇に、お気に入りの口紅を引いた。
化け物感が増していく自分の顔をぼんやりと眺めながら、私はつぶやく。
図書館で肩を並べて勉強したこと、大学の校舎の隅でこっそりキスをしたこと、夏祭りに浴衣を着ていった私をかわいいと抱きしめたこと、仕事終わりに待ち合わせして映画を見に行ったこと、思い出の街で突然跪かれてプロポーズされたこと、
全部思い出すことは出来るのに、その時の自分の気持ちを今でも思い出せるのに、
言葉で表現することが出来ない。
いや、逃げてきたから、怠ったから、私は死人なのだ。
生きながらにして死んでいる。
そして結婚生活を通して彼も。
今思えば、何の会話も無い夫婦だった。
もちろん、楽しいこと、未来への希望、とりとめのないこと、都合の良い会話だけが、癖の無いファストフードみたいに食卓に並んでいった。
そこに口に苦い良薬の姿は無い。
私達は当たり前のように発生する不満や不安や違和感は片っ端から無視した。
愛しているから大丈夫、信頼してるから大丈夫、時間が解決してくれるから大丈夫、
そうして言葉を失って、死人になった。

今、生きて言葉を喋っているのはあの女だけだ。
左手の薬指に、安い指輪を光らせて、私が人生を一緒に歩んできた人の隣で笑っている。
生きている人間には、勝てないのだ。
いくらしょうもないことだって、言葉にして話す人に、話さない者は勝てないのだ。
「ちゃんと話したい」
あの時彼はそう言った。
「何があったか、ちゃんと自分の口で話したい」
でも、何時間待てど、彼の口からは何ひとつ出てこなかった。彼は冷や汗をかいて、長時間かけて試行錯誤して、やがて諦めて、私に背を向けて逃げるように眠った。
私は人生の貴重な時間をかけて固唾を飲んで愛する人の言葉を待ったことを後悔した。
そして口紅を引いた醜い唇を今見て思うのは、心の中に何があったって、それを自分が外に出さなければ無いのと同じ。
出さずに人の言葉ばかりを待っていた私の末路は鏡の中の女が知っている。

私は声を出す。
誰もいない2人暮らし用の部屋で、フローリングには土がばらまかれていて、私は何日も洗っていないパジャマを着て、
不自然に声を出す。
「私は、あの時」
どう思ったのか
「私は、今」
どう思うのか
「私は、これから」
どう生きていきたいのか
声に出す。
声を出す。
誰に届けたいわけでもない。
ただ、自分の声を聞いてみたくなったのだ。

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