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【自己紹介②】僕がSDGsを仕事にしたいと思うまで(2/2)

さらっとだけ書くつもりが、2回に渡ることになってしまった自己紹介。

※1回目の記事はこちら
【自己紹介 僕がSDGsを仕事にしたいと思うまで(1/2)】
https://note.com/sdgs18/n/nca9521884025


今回は僕が司法書士の仕事についてから現在(司法書士とSDGsの仕事を両立しようともがいている状態)に至るまでを、いろいろハショりながら書いていきます。


カナダへの留学から帰ってきた僕は、(まだ海外気分が残りながらも。汗)早速に司法書士事務所に求人を出して、大阪の司法書士事務所(東京に本社がある割と大きな事務所)に入ることになりました。

司法書士として就職したとはいえ、実はそのときまだ籍が大学に置いてありました。(留学には大学を休学して行っていたのであと半年大学に行かないと卒業できなかったのです。ただ、卒業に必要な単位は3回生の時点で取り終わっており、卒論がない学部だったので、大学に行く必要がありませんでした)
いわゆる「大学生司法書士」というなかなかお目にかかれない肩書きを密かに持っていました(笑) 

「大学生で司法書士やってます!」なんて、不動産の取引とかの場でお客さんに言ったらさすがに不信感しか抱かれないと思い、年齢を聞かれたら3つぐらいサバを読んでました^^;

仕事自体は特に最初の方はいろいろとミスもありながら。。。やはり自分が興味を持って資格を取って入った世界なので割と楽しく、「試験勉強ではあんな感じだったけど、実務はこんな感じなんだな」といろいろ当時を思い返しながら働けたのが良かったです。


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↑いざ実務に入ると、あれだけ試験勉強で使っていた六法全書もあまり開くことがなくなりましたね。(本当はもっと活用しないとダメなんでしょうけど。。。汗)


そんなこんなで、事務所に入って2年目ぐらいになった頃に「京都に新しく支店を出す」という話が出ました。

そこで、僕が事務所の中で唯一京都府の出身という理由で、まさかの支店の代表に選ばれました。そこから京都と大阪を行き来する仕事のスタイルが始まりました。

ちなみに、事務所はその後も支店を各地に増やして、どんどん拡大志向で発展していくのでなかなか忙しくなっていきました。
残業も結構していたので、最初は実家の亀岡から事務所に通っていたのを一人暮らしに切り替え、ますます残業ができるようになるという、負のスパイラル(?)に入っていきました。
まぁ事務所の雰囲気や人間関係は良い感じで満足していたので、労働時間が長いことはそこまで気にしていませんでしたが。

さて、京都支店の代表になったという自覚もあり、より一層仕事を頑張るようになりました。京都にお客さんもだんだんと増えるようになり、「自分が大事な役割を任されている」ということには、プレッシャーがありつつもやり甲斐を感じていました。

ただ、拡大のためにはどうしても利益を確保しないといけません。
そのためには、「同じような仕事を大量にこなす」というスタイルが最も効率が良く、司法書士のいろいろある仕事の中でも特に「不動産登記」(家や土地の名義変更など)を何件こなせるか、という数が勝負の世界にどんどんなっていきました。
このようにひたすら数を追う仕事というのは、自分の中でさすがにマンネリ化していっているのを感じていました。


その一方で、僕と同時期に司法書士試験に合格した友人はというと。。。少しずつ独立して自分の事務所を構え、大変そうですがそれでもいろんな案件を受けて充実した司法書士ライフを送っているようでした。(隣の芝生は青かっただけかもしれませんが)

何より、僕が最初に司法書士を志したときに描いた理想像は「まち医者」のような仕事のスタイルです。

「都会でバリバリ大量の案件をこなし、同業者との営業や競争に勝って大きくなっていく」

これよりは、

「たくさんの案件や拡大は見込めなくても、地方でいろんな困りごとを解決して地域に貢献していく」

やっぱりこういった司法書士ライフが送りたい、という気持ちが大きくなっていきました。

そのためには、他の事務所に移るという方法もあると思うけど、その選び方もわからないし、結局、自分の思うようにできなければまたモヤモヤするんではないか。。。


それなら、いっそのこと自分でやってみようか?


その当時、27歳。
社会人になって4年目ぐらいで、とりあえず資格はあるけど司法書士は他にもいっぱいいるし、取り立てて強みのない自分が独立してどうにかなるものか?という不安はありました。
ただでさえ、大阪・京都で司法書士事務所の営業・競争の厳しさは実感しています。(やっぱり士業でも、どんな仕事でも営業って必須なんだな~と気付かされます)

ただ、人生一回きり!
自分のやりたいようにやってみようか?という気持ちの高まりもありました。

「いま独立してもし失敗しても、30代前半ぐらいならまだ取り返しがつくだろうし?何とかなるだろう。資格があれば、もし独立に失敗してもまたどこかの事務所には雇ってもらえるだろうから大丈夫」と思うようにして、独立開業にチャレンジしてみることにしました。


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↑当時の気持ちをイメージにすれば、こんな感じでしょうか?


そうと決まれば、大事なのは「開業地」選びです。

何となく同業者が多くない地域でやりたい(もう競争の世界からはなるべく逃げたい)、という漠然とした希望だけはありましたが。。。その中で「京丹後市」が最初に出てきたのは、ある司法書士の先輩(※留学を勧めてくれた先輩とは違う人です)からの一言だったと思います。


「開業地悩んでるんやね。京丹後とかどうなん?」


。。。そう来ましたか!
(留学のときもですが、人の何気ない一言で人生左右されてますね(苦笑))


京丹後」と聞いて浮かんだのは、カニ・海・雪など。。。

小さい頃から家族旅行で何回か行っていたイメージはそんな感じでした。ただ、年に1回京都府の北部地域で行われる司法書士の「法律相談会」で丹後地域には訪れていたことが2回ほどあり、いわゆる「田舎特有の法律相談」みたいなのも何度か受けていたので、「うーん、あの地域で開業してみるのもありかな」と思うことができました。(いま思えば京丹後に失礼ですね。汗)

もちろん、同じことの繰り返しにならないように「どんな仕事がしたいのか」は大事です。

僕の場合、前の事務所では絶対できなかった「成年後見」(認知症高齢者や障害のある方の財産を管理したり法的な手続きを代行したり、その人に寄り添って権利を守る仕事)という仕事がしたいという気持ちをその当時は強く持っていました。

そこで、いろいろとリサーチしてみると、成年後見という仕事の需要は京丹後周辺にはたくさんありそうで、その割に「担い手が少ない」ということがわかってきました。

そもそもその当時、丹後地域で僕の次に若い司法書士さんが40歳半ばとかでしたから、「若さ」しか武器がない僕にはちょうど良いかなと思ったこともあります。
きっと前述の先輩も、成年後見という仕事の需給バランス、そして司法書士の年齢層を見越して「京丹後どうなん?」と言ってくれたのではないかと思います(たぶん)

こんな感じで、自分の中では京丹後を開業地にする気持ちは大きくなっていったのですが、一応周りにも意見を求めます。


「確かにライバルは少ないと思うけど、本当に仕事あるの?」

「Dr.コトーにでもなるつもり?(これは丹後の人に怒られそうですね)」

自分の親でさえも、
「北部は天気が悪いで(これは本当の話)。昔から寒がりやのに、田舎で仕事やりたいんやったら北部じゃなくて南部でもいいんちゃうの?」

。。。そもそも、なぜ実家の亀岡で開業しないのか?というのが親の本音だったと思うので、「南部はどうか?」という提案はだいぶ譲って言ってもらったと思うのですが、その親の提案さえも聞かずに押し切ってしまいました。。。
(これで親との仲が悪くなったわけではなく、今では応援してもらっていますのでご安心ください。汗)

こんな感じで、実は「反対の声が9割」ぐらいでしたが、強引に京丹後での独立・開業を決めたのでした。


さて、京丹後にIターンしてきて最初に困ったのがやはり「人脈」です。

何しろ「知り合いゼロ」の状態で飛び込みましたからね。。。
(かろうじて貸事務所をお世話してくださった不動産業者さんからは「こんな人がいるから訪ねてみては?」という紹介はしていただいたので、そこから辿ったご縁はありました)

いろんなところに訪問する先々で「なんでわざわざ丹後にIターンして来ようようと思ったの?」ってやっぱり聞かれました。
今までのを累計すると1000回ぐらいは聞かれましたかね(笑)


そんなこんなで、自分が苦手な「営業」(?)とやらをしつつ。。。いろんなところで話を聞いている中で、「青年会議所(JC)」という団体に入れば人脈がつくれるらしい、ということを耳にしました。

とにかくつながりがほしかった僕は、早速に青年会議所の事務所を訪ねて入会します。

後から知ったのですが、青年会議所には普通は誰かの紹介とか推薦があって入るものなので、自分から志願して入った自分はかなり「変わり者」(志願兵)だと思われていたらしいです(汗)

JCは「奉仕・修練・友情」という三信条があります。要するに、(僕が勝手に解釈していることですが)、まちづくりに貢献(奉仕)しながらいろいろなことを学んで自己成長(修練)して、共に活動した仲間との絆を深める(友情)ことのできる場です。

「自分が仕事をする地域に対して、仕事以外でも何らかの形で貢献できたらいいな~」ともともと考えていたこともあったので、JCでまちづくりに関わる活動はやり甲斐があり、最初から結構楽しくさせてもらいました。

さすがに開業当初の数ヶ月は本当に仕事も全くなかったですが。。。(リアルな話、銀行の預金残高が1万円を切ったときも確かありましたね、そのときは焦りというよりは、後にネタになるなこれは!って思ってましたが。笑)本当にありがたいことに、だんだんと紹介なども頂けるようになり、仕事が回り始め、それに並行するようにJCでもちょっとずつ重要な役割を任せてもらうことができてきました。


。。。あぁ、こんな風に「開業奮闘記」なるものを書き出したらまた終わりそうにない気がしてきたので、急に3年ぐらいぶっ飛ばします(笑)


そんなこんなで、開業して4年ほど経った頃、JCで「京都ブロック」という京都府内全域から各青年会議所(京都府には全部で12の青年会議所があり、僕の所属は京丹後青年会議所です)のメンバーが集まる協議会の一委員会の委員長を務めることになりました。(JCは「単年度制」なので、1年間の役割になります)

「総務財政委員会」という委員会名なので、文字どおり「総務と財政」(会議運営や議事録の作成、各委員会からあがってくる議案の財務・コンプライアンス面の精査、京都ブロック全体の予算の管理など)が主な役割でした。

ですが、なぜかひとつ”謎の役割”が加わることになりました。


JCメンバーに”SDGs”への理解を浸透させる

そう、SDGs!!!


。。。やっと、ようやく、ここでSDGsが出てきました(涙)


最初は「エスディージーズ?何のこっちゃ?」という感じでした。

とりあえず調べていきましたが、

「2015年に国連が決めた目標みたいで、何か途上国とかを支援するものなのかな。。。」ぐらいのイメージしか最初は持てませんでした。

これを、こんな難しそうなものを、京都府の約500名いるJCメンバーに理解してもらうって、どうやったらいいんだ。。。と途方に暮れました。

ただ、時間は待ってくれません。

とにかく本を買って読み、出られるセミナーには出て、そして詳しい人に話を聞きに各地を飛び回り、事例を集め。。。

そんなことを繰り返していくうちに、勉強し始めて3ヶ月ぐらいで何とか最低限のことは人前で話せるぐらいのレベルにはなりました。(セミナーをさせてもらう機会をつくってくださった各地のJCメンバーの皆さんには今でも本当に感謝しています)

そして、最初は戸惑いでしかなかったSDGsですが、知れば知るほどすごい重要なことだというのがわかってきます。
(詳しいことが知りたいと思った方は、このnoteの他の記事で嫌というほどSDGsのことを書いてますので是非お読みください。笑)


一番印象に残っているのが昨年、2019年の4月の出来事。

JCメンバーを対象に「SDGsアンバサダー」(大それた名前。。。)なるものを養成する3泊4日のプログラムが小笠原で開かれたので参加しました。

そこでは、SDGsに関連する専門家の人たちが次々と話をしてくださり、それをインプットして、「自分たちはそれを聞いてどう考えるのか」そして「これからアンバサダーとしてどういう活動をしていきたいのか」をアウトプットしていく。。。(覚悟はしてたけどやっぱりこの後に活動することが前提なのね、とか思いつつ)

そんな繰り返しで、”SDGsのシャワー”を浴びまくるような時間でした。(このアンバサダー合宿の全容はいつか詳しく記事にするかもしれませんし、しないかもしれません)


そこで最も強烈にインプットされたのは、

このままでは地球がヤバい


ということ。
(敢えてカジュアルな表現をしていますが、確かなエビデンスを基に様々な事実を知ることになりました)

地球温暖化をはじめとする環境の悪化がどんどん進行しており、このままでは自分たちの子どもや孫という次世代により良い社会を残していくことができない、ということを学びました。


SDGsとは次世代への命のリレーである


合宿の後半に講師から語られたこの言葉が、すごく胸に刺さったのを今でも覚えています。

後に有名になりましたが、そのときに初めて見たスウェーデンの環境活動家のグレタ・トゥーンべリさんの動画が衝撃的でした。

【グレタ ・トゥーンベリTEDトーク(2019年)】
https://www.youtube.com/watch?v=B88uhHdehpg


このときから自分の中でSDGsを推進していくテーマは、

「SDGsとは次世代への責任」


になりました。

ただ、「責任」とか言ってしまうとどうしても重くなりますので。。。いかにもっと身近に感じてもらって楽しく周知していけるかを考えるために、このnoteであれやこれや工夫して、記事を書き続けていこうと思ってるんですけどね^^;


ともあれ、このアンバサダー合宿が大きなきっかけとなり、

「自分はこの1年間のJCでの役割が終わったとしても、引き続きSDGsを広め、推進していける人になりたい」

こんな思いを抱くことになりました。


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↑全国各地(だいたい各都道府県に一人ずつ)に日本JCのSDGsアンバサダーが誕生しました。各地で仲間がそれぞれに頑張っていると思うと「自分も頑張ろう!」と励みになります。


さて、その後もあの手この手でSDGsを理解してもらうための活動をJCで行いました。その推進活動の一貫としての広報記事はこちらのHPをご覧ください(笑)

【京都No.1を目指すSDGs発信局】
http://www.jaycee.or.jp/2019/kinki/kyoto/?cat=31


ということで、JCの役職としての担いは昨年の12月で無事に終わりました。最終的に京都ブロックのJCメンバーの8割ぐらいが「SDGsへの関心が高まり、将来的に取り組みたい」と思ってもらえたというアンケート結果が出るまでになりました。(もちろん、次年度への課題や引継ぎはたくさん残してしまうことになりましたが。。。)


しかし、ここで終わってはいけない!

アンバサダーの合宿で自分に誓ったことを何とか果たしたい!

せっかく一年間必死で勉強したものをここで終わらせては勿体ない!


このような思いもあり、普段の仕事としても取り組めるようにSDGsに関する学びを続けました。

●(一社)イマココラボさんが主催する、SDGsをカードゲームで学べるファシリテーター養成講座(2030SDGs)

●(一社)SDGs支援機構さんが主催する、企業へのSDGs導入を支援するSDGsビジネスコンサルタント養成講座

大きくはこの2つを受講し、
今年、2020年の1月に「株式会社BLUE MISSION」というSDGsの推進を仕事にするための会社を立ち上げ、今に至るということになります。



。。。さて、こんなところで「僕がSDGsを仕事にしたいと思うまで」という流れがわかっていただけましたでしょうか?(強引)


(大学時代)
●何らかの専門性を持って人の役に立つことをして社会に貢献したい

(新卒~勤務時代)
●司法書士というやりたかった仕事にはついたけど、自分の描いていた理想像とは何か違うという違和感

(独立時代)
●司法書士として開業し、いろいろな相談に乗りながら地域に貢献(できているかどうかはさておき。汗)

(独立から数年後)
●JCという組織でSDGsに出会い、JCメンバーには一定の周知ができた(課題はたくさん残しましたが。。。)

(いま~将来)
●地域内において企業や市民の方々にSDGsを推進するというのを仕事にすれば、司法書士とはまた別の形で自分なりに新たな専門性を持ちながら人の役に立つことができるのでは?

●そして、それが社会に貢献することにつながり、少しでも次世代により良い社会を残すお手伝いができたら、自分の理想とする役割が(とても微力ですが)果たせるのでは?

改めて振り返ってみると、いろんな障害はありながらも、なるべく自分の心に正直に選択を積み重ねてきた結果、司法書士を志すときに思い描いたような仕事のスタイルが、形を変えながらもできてきているのではないか、という感覚がしています。


もちろん、司法書士の仕事も現在進行形で懸命にやらせてもらっています。司法書士というある意味ひとつ安定した仕事をさせてもらっているからこそ、新たなチャレンジもできているんだと思います。

そう考えると、常にいま置かれている環境に感謝しつつ、これからも自分のビジョンを大切にしながら、できることに取り組んでいきたいと思います。

ただ、どうやら留学をきっかけに「人と違うこと」に価値を見出してしまった僕は、これからもおそらく人があまり行かない方向にいくことになるんじゃないかな?とも思ったりしています。地域での変わり者というポジションはこれからも揺るぎそうにありません(笑)

 

さてさて、今回も長くなりましたが。。。
とても個人的な、とりとめのない話に付き合っていただき、ありがとうございました!

それでも懲りずに、これからもSDGsの発信を続けます!



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