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再会をしてみた。

 GWに広島へ。そうした目的の中には、広電を撮影したかったという思惑も多少なりは含まれていたように思う。
 このGWの時期には広島市内の中心地でフラワーフェスティバルなる催しが開催されており、そのイベントの開催に伴って広島電鉄は車庫から車両を総出で出庫させ臨戦態勢でこの長い休日を乗り越えようとしていた。
 自分が訪問した時期には丁度マツダスタジアムでカープがDeNAを迎えて対戦していたのでかなり広島市内には人がごった返していたように思う。
 最低自分の思いなのだけれど。
 さて、そんな活気のある中で自分がこの連休で想定外だった事。それは数多あれど、一番は京都市電の記録が捗った事ではないだろうか。
 いつもの事だが、自分は広島駅前から広電に乗車する前には写真を何分か撮影してから乗車する。(その中には列に並んで電車を待つのがむず痒いという思いもあるのだけれど。)
 そうした中、自分はこの時フラワーフェスティバルというイベントを全く知らなかったので、沢山の車両たちに混ざって京都市電の車両がやってきた時は驚いてしまった。
「コレにしよう!!」
一瞬で即決し、京都市電に導かれての旅が始まった。

 段々と迫り来る姿。
 コレほどまでに感動する事があるだろうか。
 かつて自分の暮らした郷土を支えた車両たちが今でも大活躍している。という事実だけで。
 京都市は既にバスに都市交通をシフトし、現在は増え続ける観光客の対策にと新しく観光特急バスの運転も開始した現状…があるが、
 そうした中でも京都市電は広島の大地で屈強な力を発揮し未だにモーターをガンガン唸らせ走っているのだった。
 この瞬間のテンションの上がりよう、半端ではない。
 しかも譲渡前の姿そのままなのだから、テンションは確実に鰻上りだ。
 最新鋭の低床車両や連接形たちと仕事に励む姿は、
「まだ走るのか?」
という戸惑いも同時に掻き出してくる。
 非常に不思議な時間だ。

 一通り走り終え、広島駅前に到着した京都市電からの車両。
 形式はそこまで変化した訳でもない1900形を名乗っている。
 広島に譲渡され活躍の場を移すに当たっては付番方式の変更を余儀なくされるが、それ以外はそこまで大きく変化はない。
 強いて変化したヶ所を上げるのであれば、集電装置をビューゲルからシングルアームに変更した所。マーカーランプのようなものを装着してより道路での走行安全性に気を配った所…だろうか。
 それ以外は殆ど変化していないように思う。
 ちなみに奥に停車しているのは、広島電鉄の最新鋭車両である5200形。
 広島電鉄が持参する功績の1つである『国産完全低床車両』の道を引き継いだ車両で、今年にも新たに1編成が増備された広島電鉄のエース格な車両である。
 訪問した折の天気はあまりにも快晴だったのを今でもハッキリ記憶している。相当な暑さに困憊しながらの旅路ではあったが、京都市電に遭遇するとその項垂れるような状況からは一気に解放された。

 広島に譲渡された京都市電車両。
 彼らは1両ずつ、京都を想起させる名称を公募で付帯されており各車両には名称が付いている。
 しかし、この日はフラワーフェスティバルに伴ってその名称は見えなかった。
 この1905号車は『比叡』という名称が付けられている。
 名称、『比叡』と来れば京都にもあの楕円形の奇抜な車両が在籍しているが、その車両とは完全な別物。(いやわかるだろ)
 今回はフラワーフェスティバルの開催期間中という雰囲気を演出して1枚。
 あまり京都市電でこの記録なかったような。

 広島電鉄では車両のやり繰りがかなり変化し、単車でも広島駅前には入線しないような状況が最近では続いている。
 広島電鉄では他都市から多くの車両を譲受し受け入れているが、その中でも京都市電の車両…1900形に関してはかなり状態が良いのか継続して現在でも運用にバンバン投入されている。
 本当に衰え知らずの車両で、こうして広島駅前に入線してくるのもそうした元気の証だろうか。
 現在は工事真っ最中の広島駅前に何くわぬ顔で入線し、折り返しをこうして待機する姿はそれこそ本当に生涯現役の言葉を噛み締める特別な姿ではないだろうか。

 そのまま折り返しの京都市電1905号車に乗車。
 発車してからの時間はモーターが車内に響き渡る轟音を奏でているので車内放送が聞き取れない。
『次は、◯◯。◯◯です。』
の車内放送が流れていても
耳では
「え??なんてぇ??」
の繰り返しの状態がずっと続く。
 しかしこうしてモーターを唸らせながら走り続ける様は本当に嬉しい。
 車内は旧来の路面電車からの木を中心にした車内で、電球色の照明も相俟って時代を少し遡った感覚が強烈だ。
 写真は乗車中、下車手前に撮影した泰平電機製のマスコン。
 電車のアクセルとなる部分だが、こうして見ると『マスターコントローラー』なんて正式な名称の方が絶対に似合うのではと錯覚してしまう。
 車両を動かすに当たっては小刻みに動かして自動車の列と共に走行していくのだが、その際にも
カチャン、カチャン
と機械らしく刻んでいくサウンドが印象的だった。路面電車とはかつてこうであり、全国の都市部では当たり前のようにコレが移動手段の日常だったのだろう。

 下車して顔を眺める。
 そうそう。コレこそ京都市電の在るべき姿であり、自分が知っている京都の交通を支えた姿なのですよ。
 広島に譲渡されるに当たって小改造をしている以外は本当に変化しない顔つきで、その顔には全く衰えを感じない。
 自分のように若い人としては
「この電車たちがかつては今暮らしている京都の街を支えていたんだな」
と感慨や回想に浸る事しか出来ないのは非常にもどかしいのだが。
 クリームに朱色の線を挟んで緑色で閉じるこの塗装。
 自分が小学生の時期に読んでいた書籍を彷彿させる。
 何故か小学2年生の頃、教室内の本棚に京都新聞社が発行した京都市電の歴史に関して記した1冊の書籍『京都市電物語』が置かれていた。
 多くの児童文庫などが置かれていた中で、どうしてこの京都市電の書籍が置かれていたのかは知らないが児童文学の世界などに浸れない自分にとっては、この京都市電の書籍だけが教室の中で1人の友人のような存在でもあった。
 あまりにも長い期間読んでいたので、担任の先生には声を掛けられた事もある。
 しかし、自分の中には書籍の内容を理解するというより単純に
「教室内に鉄道の本がある」
という思考の方が先行していたように思う。
 今思い出しても何があったか、何が記されていたかまでは詳細に思い出せない。
 きっと写真目当てに読んでいたのだろう。
 文字だらけで窮屈だった1ページ1ページは今でも脳裏の中だ。

 京都市電を下車して、ここからバスに乗車した後に三段峡方面に向かう。
 広島市の中心地、紙屋町のそごうと共演する京都市電の姿はすっかりお馴染みになってしまった…が、この車両を京都の車両と知っている自分にとっては何処か懐かしくも複雑な思いが交錯していたのであった。
 そのまま線路を曲がって広島港方面を目指す京都市電を見送って、自分はバスに乗車する為移動したのであった。
 そごうの中に入居している『広電バスセンター』の文字フォントが非常に美しい情景として引き立てている。
 まさか自分でもこうして広島で活躍する姿を撮影するなんて思ってもいなかった。
 ある意味人生の巡り合わせだろうか。

 昼間、予想外に早く帰着してしまったので広島市内で再び広島電鉄を撮影していく。
 京都市電を絶対に見られる路線が、広島電鉄には存在している。それが全長1.2キロの9系統こと『白島線』だ。
 この白島線では、毎日必ず1両は京都市電という確約された状態で仕事が振られており、必ず遭遇が可能になっている。逆に京都市電ではない時が異常事態、緊急事態というのだから京都市電に会う為にこの短い1.2キロを堪能するのは悪くない。
 偶々自分が新白島駅から白島の電停に移動した時は丁度、京都市電の車両がやってくる時間であった。
 白島線は京都市電と低床車でのローテーションで賄われており路線内で行き違いがある。
 写真で見てもわかるように、電停は単線の小さな規模で収縮している。
 ポツリと余生を暮らすようにして働く京都市電の様子は、何処か元気なように見えて儚くもある。
 シングルアームのパンタグラフをかざして白島の電停に入り、ここから乗客を乗せて紙屋町まで戻っていく。
 車両は逆光で分かりづらいが、よく見ると車両には『祇園』の愛称が付けられている事がわかる。

 生活にはあまりにも綺麗に溶け込んでいる。
 電停に停車して乗客を降車させる姿は、本当に往年の京都市内で何度も繰り広げられた光景なのだろう。
 老若男女の生活を支え、白島線のエース車両として街中に映える姿がここまでしっくり来るとは本当に思わない限りだ。
 そこにあったのは、京都市が何年か前に失った情景であった。

 じっくり車両を眺めたり撮影に浸ったりとしている中で、いよいよ発車の時間がやってきた。
 走り出すスピードにも衰えは感じない。むしろこの街に慣れた電車の中では、もうすっかり日常に溶け込んだ動作の流れになっているのだろう。
 時代に則して多くのものを取り入れた京都市電の車両だが、歩む速度は。過ごしている生活が変化する事は全くない。
 この日も晴天の広島の街中を、八丁堀と白島を往復して走行しているのであった。

 白島線は『単線のような構造』になっており、白島では『到着した電車が発車しなければ次の電車がやってきて折り返せない』状態になっている。
 歩いてこの白島線を辿るのははじめてだったが、車両が他の路線と比較すると中々やって来ないのでかなり時間を持て余した印象がある。
 しばらくすると、路線内で行き違いをするポイントにやってきた。
 八丁堀も白島も、互いに車両が発車してホームを空けなければ次の電車が入線できない…という実質上の単線運転を行なっている。
 そうした中で、互いの電車は軌道上で行き違いをするのだ。
 片方は先ほども記したように低床の車両、もう片方が京都市電となっている。
 京都市電に会いたい…という人はこの白島線が必ず会える『確約路線』となっている。
 京都市電の車両自体、まだまだ元気で衰える様子は一切感じないのだがこうしてまだまだ仕事を年中無休に近い状態で付与されているのは驚愕の極みであるだろう。
 そして、遅くなったが写真がその『もう1方の車両である低床車』との行き違いの様子だ。
 京都市電と共に働く車両は、広島電鉄の国産完全低床車の1台である1000形は平成25年の生まれ。片方の京都市電の車両は昭和37年の生まれだ。

 白島線はそうして、路面電車の新旧のコンビネーションを楽しめる路線なのだが互いの車両の年齢差は驚愕の56歳差である。
 親子以上の差が離れた両車の活躍というのは撮影していて非常に楽しいものだ。
 ちなみに昭和37年といえばキューバミサイル危機。そして国鉄の『三大事故』の1つである『三河島事故』の発生した年となる。
 また、海外では現在我が国で注目を浴びる大谷翔平・山本由伸の所属するチーム、ドジャースの本拠地であるドジャースタジアムが柿落としを迎えた年でもある。
 まだまだ1000形も路面電車の中ではひよっ子・若造のレベルであるがこの時代を超えた共演は一見の価値があるだろう。

 女学院前電停での1枚。
 写真にはフィルター加工を投じて撮影しているが、こうして撮影した瞬間に一瞬だけではあるが京都を支えていたあの頃に戻れるような気分にさせられる。
 自分の周囲に居る知人、同僚などで京都市電の活躍を知る人は本当に少ないのだが京都の街中を市電が支えていた時代とはどういった物なのだろう。
 今でも広島で再会とまでは大きく演出しないまでも変わらず健在な車両たちを見る度に憧れと記憶を探る思いで一杯になる。

 白島線を離脱して、自分は次に相生橋の方面へと移動した。
 この日は何度も記しているようにフラワーフェスティバルの開催日であり、この周辺に滞在していると多くの車両を撮影できるのだ。
 と、相生橋の方に向かうと小型の見慣れた車両が駆け出していく。
「あ、京都市電だっ…!」
そう思ってカメラを構えた時には車の波に消えていったり、撮影のタイミングが外れたりと少々撮影には難儀した。
 そうした中で、撮影用に走っているのではないか?ジオラマのような情景じゃないか?と考えが巡るように綺麗な1枚が撮影できた。
 日差しの中、ビルと一緒に変わらない側面の塗装を光らせる京都市電。
 京都市電と共に広島の街を路面電車から見つめる『ますやみそ』の広告も一緒だ。
 相生橋付近で撮影した記録ではお気に入りの1枚となる。

 相生橋を渡る京都市電の記録、もう1つ。
 この日はフラワーフェスティバルの開催記念板を差し込んでいる車両が多い中、この車両だけは数少なく何も装着していない状態であった。
 おそらく江波方面から戻っていく姿であろうか。
 綺麗な午後の日差しにその姿を照らし、相生橋を渡って広島の市街に溶け込んでいく。
 この橋の後方には、広島が世界に訴える核の被害を現代にまで伝承する産業遺産の1つ『原爆ドーム』がある。
 実は撮影中、原爆ドームだったか原爆資料館の案内パンフレットが路上に落ちており
「なんで落としたんや…」
と息を少しだけため息っぽく悲しめに吐いてしまったのはここだけの思い出だ。
一番肝心なものを落としているとは…
 かくして、広島での変わらぬ生活をする京都市電の姿を撮影した。
 相生橋の近くには古本屋もあり、京都市電が戻るまでの時間には良い暇つぶしになった。

 オマケに掲載。
 相生橋を渡る宮島線の電車である。
 平成期に製造した自社の単車、そして自分の目当てである京都市電に…とたくさんの車両が走る中、やはり迫力で訴えてくるのはこの宮島線の運用に就業している5連接の車両だ。
 写真は宮島線。そして広島電鉄の最新鋭車両である5200形だ。
 令和元年から製造され、同年にはグッドデザイン賞も受賞している広島電鉄期待の車両である。
 愛称には『グリーンムーバーAPEX』(エイペックス)の愛称が付与されている。
 かつて都市を支えたOBたちの活躍を観れるのが最も嬉しいのだが、こうしてやってくる自社のカラフルな車両たちも実際には捨て難い。
 本当に鉄道ファンの心には刺さる会社だ。

 続いて移動したのは、千田車庫である。
 広島電鉄の車両たちはこの場所に待機し、そしてこの場所に帰る。いわば仕事の拠点のような場所だ。
 写真は車庫の正門から撮影した様子。
 京都市電が西陽を受けて写真に映り込む中、写真の左手には『被曝電車』こと650形が。
 そして左手。煉瓦造りの建物の下には西鉄北九州線から譲渡された3000形が停車している。
 650形・3000形共に現在も不変の現役車両だが、車両の運用状況も少しづつ新型にシフトしており、滅多な事では稼働しない。
 特に3000形は朝ラッシュ時間帯のみ(平日)の稼働とありかなりレアな車両だ。
 そうした車両たちの中で、京都市電は持ち前の収容力。そして稼働の使い勝手を活かし現在も変わらぬ活躍をしている。
 この時、京都市電は夕方の1運用に備えて出庫を待機していた。

 しばらく待機していると、京都市電が出てきた。
 もう1っ走りしてから再び千田の車庫に帰るのだろうか。
 変わらぬ塗装。
 そして京都市電の寮友を後方にして再び出庫に向かう姿は宛ら昔の九条・錦林の車庫を彷彿させる。
 何度もこの大地で京都市電の活躍を眺め思った感想なのだが、在りし日の京都市内はこうして京都市電たちが町の交通を牽引したのだろうか。
 市民の足としての活躍には間に合わなかったものの、広島生活は順風満帆のようである。
 しかしここまでずっと見て思ったのは、京都市電の活躍がずっと信頼され変わっていない事。
 車両の代謝や新車の導入などで次々引退していく大阪市電・神戸市電の車両に比較すれば京都市電の状態は相当頼られており、揺るぎない全幅の力が託されているように思う。

 出庫前に撮影した京都市電の中で最ものお気に入り。
 ここまで綺麗な西陽をカメラで記録できるなんて思わなかった。
 多少変化した部分はあれど、こうして記録した京都市電は本当にあの日。あの時期と変わらない姿である。
 広電前…と方向幕には記されているが、これは『広電本社前』の略称。
 方向幕ではこうして表記され、車両のチャームポイントのようになっている。

 出庫してゆく京都市電。
 実際はこうしてガレージのようになっており、車両の出庫を臨場感もたっぷりに記録する事が可能だ。
 この時、出庫の安全確認をする為に警手と思しき職員が道路に出る。
 その姿を見てしまうと
「昔の京都はこうして市電を誘導し仕事に送り出していたのかなぁ」
なんて再び考えてしまう。
 とにかく、京都市電が風景に混ざってくると全てがあの時期の京都市内に見えてしまうのだから景色…脳の与える錯覚とは記憶とは不思議なものだ。

 この後、電車見晴台(でんしゃみほうだい)に時間ギリギリで移動して京都市電の車両を記録。
 この時は見晴台に多くのファンがおり、この後のフラワーフェスティバルの臨時列車の動向を探っているようだった。
 被曝電車・京都市電・西鉄北九州線の並びで再び1枚。
 この後も京都市電を追跡していく。

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