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マリオネットの冒険 〜闇と光を生きること

絶えることなく内側を駆け巡る思考からマリオネットを連れ戻すのは、またもショーウィンドウの外での出来事であった。夜の闇が訪れたのだ。
彼は外の明かりが少しずつ暗くなっていくのを感じた。パッサージュ中の店はもうとっくに閉まっていたが、店の照明はまだついたままであったものが、ひとつまたひとつと消されていくのが見えた。パッサージュの道の両脇の街灯も向こう端から一つずつ消えていき、代わりに黒くなっていく様子が見えた。人が夜闇と呼ぶものが迫ってきて、じきにショーウィンドウの世界にも訪れて、それは彼を覆い隠すのだ。
マリオネットのそばの時計は十二時過ぎを指していた——それは不正確で、本当は十時であった——が、彼は正確な時刻を知る必要はなかったし、むしろ好都合であった。なるほど3つの針がちょうど一番上を向いた頃に、この世界の光はなくなってしまうらしい。
自分の周りの光が消えてなくなってしまったときにこの自分は、もっと正しく言うならば、一繋がりの自分の思考がどうなってしまうのだろうかと考えた。答えはすぐに分かった。世界は無になるのだ。自分の頭の中の記録、すなわち全て眩しい世界での出来事の間にあるものが〈黒〉であり、自分は一面に広がる黒の中で何が起きたのかを全く覚えていないということを理解したからだ。自分の記録、黒と黒の間の出来事は、雑誌から切り抜かれた写真のように、一つひとつばらばらの状態で転がっているかのように思えて、それらを文脈(テクスト)に沿って並べる作業の疲れから自分を解放してくれるのは、この避けがたい暗黒以外に存在しないのである。
「つまりこうだ。光がなくなった時、私の今が昔になる。また新しい昔が生まれる。それに対して新しい説明が必要になる。それこそが自由の責任だ」
マリオネットはその晩の思考に達成感を覚えた。ショーウィンドウに閉じ込められるという、降りかかってきた不幸の中でよく考え、それを招いた過去の自分がさらに不幸であったことを証明して見せたのだ。だからといって、思考によって満ち足りることはない。それが一層誇らしく思えた。
「よし、今日はおしまいだ。よく考え、よく分かった」
彼は心の中でそう唱えて、右の拳を上げ、左の拳を胸の前に置いた。とりあえずこうすれば、誰も自分がひとりでに動いたとは思わないだろう。
骨董屋の前の街灯もショーウィンドウの照明も落とされた。マリオネットは死んだように動かなくなった。

マリオネットは賢い。賢人と呼ばれないのは、彼が〈もの〉であり〈人〉ではなかったからにほかならない。ショーウィンドウの中にいる限り、マリオネットは人ではない。ショーウィンドウの外で闊歩している者が、人なのである。時折ショーウィンドウを覗き込む者が、人なのである。ごく稀にその中の売り物を指差して選んでいくのが、人なのである。
人は愚かである。その理由を長々と語る必要はない。人は明かりを消すことを知っているからである。光の世界が疲れたら自らを暗闇に放り込む。次の朝には否が応でも光が差し込むことを知っていて、昼間にはショーウィンドウの中を指差す。人は光の中で考える勇気を手放し、光の中にあるものを指差す。指を差されるものは彼らの中で死んだ〈もの〉である。
だから、人は愚かなのである。考えることを捨てる生き物を賢いとは言わない。彼らは残酷である。


翌朝、パッサージュのガラス屋根を突き抜けた太陽の光線がマリオネットの顔に差し込んだ。唐突な眩しさは彼を「明るい世界」へと連れ戻した。しかし、その様子は昨日と全く異なっていた。
ガラス越しに、骨董屋の周りに幾人もの人間が群がっているのが見えた。ショーウィンドウの中の惨状が、通りかかる市民を驚かせたのだ。
—— 夜のあいだに泥棒が入ったんだ
—— 泥棒の仕業なら、なぜ近くの宝石店や洋服店が荒らされていないのか
—— 何も持ち帰られていないのはおかしい。半端者がいたずら目的に壊したのだ
彼らはそれぞれに憶測を口にしたが、それらは全て間違っていた。マリオネットのことを疑う人間は誰もおらず、歴史ある骨董屋とその中の商品を荒らした犯人への怒りもあれば、パッサージュの平穏が奪われたことへの不満もあった。
そうした声は、マリオネットにとってどうでも良かった。多くの人間が目を凝らし、自分のいる世界の方を見ている光景は、劇場の舞台で踊っていた過去を思い出させた。右手を上げたまま静止している今の姿勢もまた、踊りの最後に作っていたポーズと同じであった。幕が降りるまで鳴り響いていたあの喝采が遠くの方で聞こえてくる気がした。
あの時と大きく違うのは、眼に映る人々の表情に笑みがないことであった。しかしそれすら、彼にとってはどうでも良かった。人間が喜ぶ仕草は、昨晩斬り捨てた人形の微笑みのように意味を成さないものであった。それよりも、まじめな顔つきで見られているほうが今の自分に釣り合っているとさえ思えた。
マリオネットは考えた、自分は昔の輝きを取り戻したのだと。それも糸を使わず、自分の力だけで取り戻したのだ。
マリオネットは考えた、自分は力を手にしたのだと。ナイフを使って秘密を暴いてやるのは、自分にとっても小気味良く、ショーウィンドウの外の人間にとっても面白いに違いないのだ。
そして、これこそが自由の特権に違いないのだ。マリオネットはそのナイフで、未来を「切り開く」ことに決めた。

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