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【後編】こころとからだ時々こらだ

音声バージョンはこちら

S.C.P. Japan共同代表の井上です。
「こころとからだと時々こらだ」の後編です。前編では、『1. 心身二元論 V.S.「こらだ」』、『2. ミサちゃんのお話』を載せています。

※前編はこちらから。

3.「こらだ」の出現

私がミサちゃんと手を合わせた瞬間、荒れ狂っていたミサちゃんの体からすーっと力が抜け、安心が広がる感覚が体をかけめぐりました。そして、その感覚が同時に私にも合わせた手を通じてはっきりと伝わってきました。
ミサちゃんは私の手を跳ね返すのではなく、ゆっくりと優しく握り返してくれました。互いの「こらだ」が伝わり、少しずつミサちゃんの強張りがほどけていったのを感じました。

東畑さんは著書の「居るのはつらいよ; ケアとセラピーについての覚書」の中で、こんなふうにも言っています。

熱が出たとき、怪我をしたとき、眠れないとき、泣きそうなとき、僕らの心と体は「こらだ」になって触れられることを求める 

あの時、ミサちゃんの「こらだ」は触れられることを求めていたのです。

4.「こらだ」を忘れた大人たち

ミサちゃん以外にも、子どもの心と体が「こらだ」になっているように感じることがよくあります。もしかしたら、子どもは大人よりもずっと普段から「こらだ」で生きていることが多いのかもしれません。だから日々体の触れ合いを多く求めるし、素直に弱さや不安が表出します。弱いからこそ他者に頼って生きているのです。「こらだ」を持ち合わせ、人に頼れるということは、立派な彼らの強みなのです。

しかしなぜだか多くの人間は、大人になるにつれて上手に心を隠せるようになり、心とは別の姿を体で演じながら人と関わり生きていけるようになります。心は本当は弱くても、体で強いふりができるようになり、誰かに頼ることが下手になります。「こらだ」で人に頼る、という強みを失っていくのです。
そして、それがまるで望ましい大人のあり方のように思えてしまうのです。

5.スポーツで「こらだ」を考える

私はミサちゃんをはじめ、子ども達とのやり取りを通じて「こらだ」を感じる中で、忘れていた感覚を思い出したかのような懐かしい気持ちになりました。心と体が頻繁に「こらだ」となっていた、サッカーをしていたあの時の感覚を思い出したからです。

サッカーをしているとき、喜びや楽しさ、悔しさや苛立ち、すべてありのままの心の状態が体とリンクしていました。
年齢や立場や性別を越えて、ピッチの上にいる時こそがありのままの自分でいられるような感覚でした。
勝利の嬉しさを仲間と抱き合って喜んだ時の感触や、落胆している時に誰かにそっと背中を押してもらったときの温もりは、今でも忘れられません。何より「こらだ」で築いた絆は言葉にはできないほど強くかけがえのないものになっています。

スポーツには、私達の分けられた心と体を「こらだ」にしてくれるチカラがあるのかもしれません。

そしてその「こらだ」は私達人間が一人ではいかに弱くて脆く、どれほど他者との繋がりが大切かを、思い出させてくれます。
そんなふうに「こらだ」を通じて自分の弱さに向き合えた時、誰かの弱さにも共感する力が養われます。

大人になった私達がいつも「こらだ」でいることは難しいのかもしれませんが、時々「こらだ」を体感することで少しだけ自分にも相手にも優しくなれるのかもしれません。

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