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子どもにトビタテ高校留学を勧める遠因となった、自分の高校時代の思い出

私の子どもがトビタテで高校留学するきっかけとなったのは、私が「こんな奨学金あるよ」と勧めたことだ。子どもは以前から海外に興味は持っていたが、トビタテのことは知らなかった。好きなテーマを自分で設定して留学計画を作れるところが、ツボにはまったようだ。

トビタテの話をする前、ロータリー財団の奨学金も子どもに紹介した。こちらは私はあまり詳しくないが、日本各地にあるロータリークラブが窓口になり、募集の対象や選考方法などをそれぞれ決めているようだ。うちの子どもは、ロータリーで1年留学すると日本の高校を留年することになる(私の子どもが通っていた高校では単位互換できないから)のと、行き先の国を自分で選べないことが気乗りしないと言い、応募はしなかった。

私が高校での海外留学を子どもに勧めたのは、遥か昔に自分が高校生だった時の思い出に基づいている。ロータリーの制度で交換留学に行った同学年の生徒がいたのだ。交換留学だから、彼はヨーロッパ某国へ行き、その国からは留学生(A君)が来た。

そこでも留学中の単位は互換できなかったから、交換留学に出かけた彼は高校を留年した。当時の私には高校で留年することはとても考えられなかった。でも自分が社会人になってから考えると、高校を4年かけて卒業することになっても、1年間奨学生として留学できるなら、十分過ぎるほど挑戦する価値があることだと感じられる。高校生の時点でその覚悟ができるのはすごいことだが。この記憶が、数十年後、自分の子どもに高校留学を「どう?」と話すことにつながった。

さて、交換留学生としてやってきたのは同い年の男子A君だった。身長は日本人と同じぐらい、大人しそうな雰囲気を身にまとっていた。そして、何故かは知らないが学校に慣れるまでの数日間、私が案内役を務めるよう教師に指名された。休み時間や放課後に学校を案内したり、ホームルームで教師が話すことを伝えたりしてくれということで。

私が通っていた高校は、国際性とは無縁だった。私もそれまで外国人と話した経験などほとんどない。大いに戸惑いながらA君とコミュニケーションを取ろうとした。

今でも覚えているのは、新学期早々で検便だったか検尿だったかのキットが配布され、それをどう英語で説明すべきか全くわからなかったことだ。今ならスマホで調べればすぐ英訳できる。でも当時そんなものはない。手元にあるのは高校生向けの紙の辞書、それも英和辞書だけだった。身振り手振りを交えてどうにか理解してもらったときにはドッと疲れが出た。

また、何かを書類に書くときに「ここは大文字で書いて」と言いたいのに「大文字」の英語での言い方がわからなかったことも覚えている。たしかLarge letter(大きな文字)とか言って理解してもらえず、紙に「aとA」みたいに小文字と大文字を書いて、また身振りを交えて説明した。

どちらも、「学校で学んでいる英語って実用性低いな」ということを痛感した出来事だった。今でも私の英語は「使える」レベルにはほど遠いが、自分で学ばなくちゃダメだなと感じた原点は、多分ここにある。

A君は、1週間ぐらいすると別のクラスに移って行った。たしか日本から交換で留学に旅立った彼のクラスに入ったのだと思う。以降、話す機会がほとんどなくなってしまった。ずっと高校にいた訳ではなく、他の学校に来ている留学生と一緒に活動をしたりもしていたようだ。

そのA君が1年の留学期間を終えて帰国するとき、終業式か何かで体育館のステージから挨拶をすることになった。来たときは日本語がほとんど話せなかったが、そのときは日本語でスピーチした。

A君らしい静かな口調で日本での思い出などを話した後、彼は
「でも僕は、日本でひとつ悪いことも覚えてしまいました」と言った。

このひと言で、体育館にいた生徒の関心が一気にステージへ引き寄せられた。それまで退屈そうに聞いていた者も含めて。一体これから、何を言うんだと。

「それはー」と、A君はワンテンポ置いて続けた。

「授業中に寝ることです」

体育館は爆笑に包まれた。まさか、とても真面目に見えるA君の口からそんな言葉が出るとは。

私の筆力では可笑しさが伝わらないかもしれないが、いま思い出しても笑えてくる。これまでに私が直接聞いた中でのベストスピーチのひとつだ。もしかすると、授業中の睡眠者が少なからずいたその学校と教師・生徒への、ユーモアに包んだ批判も含まれていたのかもしれない。「膨大な時間を使って何やってんだい、君たちは」と。

交換留学したA君たち2人がその後どんな道を歩んだのか、私は知らない。でも高校生のときに異文化にどっぷりと浸りさまざまな体験をすることは、語学を学ぶだけでなく、物の考え方やその後の進路選択などに、意識できる面・できない面ともに、大きな影響を及ぼすんじゃないだろうか。そしてその経験は、その後どこで暮らすかに関わらず、様々な機会に心の中で立ち戻ることができる自分ならではの参照点となるんじゃないだろうか。当時のA君のことを思い出したり、トビタテから帰国した後の私の子どもの様子を見ていたりすると、そんなことを感じる。

下の子が高校生になったら、トビタテやロータリー奨学金をまた、「こんなのあるよ」と話してみよう。

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