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利をはなれ 心のすべて 無なる時 有を生ずる 世とぞ知りたり 

55歳といえば通常リタイアを考え始める時だけれど、その年に、670年続いた老舗、塩瀬総本家代表取締役社長を継ぐことになった人。それが塩瀬総本家第34代当主・会長の塩瀬英子さんだ。

東京・築地に本店を構える和菓子の老舗、塩瀬総本家。日本の饅頭の元祖とされ、多くの人々から愛されてきた。

和菓子作り670年余となる塩瀬の歴史は、南北朝時代の1349年に遡る。中国から来日した林浄因(りんじょういん)が奈良で日本初の餡入り饅頭を作り、その味が評判になった。

1928年から53年まで32代当主を務めた渡辺亀次郎氏は、英子さんの父親。職人肌でお菓子一筋の人だった。その腕前は和菓子職人の間で、「お菓子の神様」と呼ばれるほどで、そんな父は常に「材料を落とすな、割り守れ」(割りとは材料の配合のこと。つまり、素材にこだわり伝統の配合を守ること)と言っていた。

これは今や家訓となり、塩瀬の職人に670年もの間継承されてきた。

1945年に終戦を迎えた頃、しかしながら状況は一変し、砂糖などの材料がまったく手に入らなくなった。人工甘味料のサッカリンを使って商品を作らないかという誘いは山ほどあって、さまざまな業者が「塩瀬」の看板さえあれば何だって売れる、と口を揃えて言ったという。それでも店主である英子さんのお父さんは「まがい物は作らない」とすべて断ってしまった。

そうやって守り抜いた塩瀬の暖簾は、今も伝統の味を守り続けている。英子さんが55歳で34代当主になった時は、周りの反対を押し切って、百貨店での小売事業に臨んだ。

英子さんの太っ腹なところはおそらく33代目の当主である母、渡辺よしさんから引き継がれたもの。よしさんには商才があった。その当時の日本では、戦地から戻ってきた息子が結婚にするとき、その母たちは結婚式の引き出物としては最上の品、つまり塩瀬のお饅頭にしよう、と考える親が増えることを見抜いていた。そこで始めたブライダル用のお菓子が大当たりした。

関東一円の神社、ホテルのほか、400以上の結婚式場からの注文が殺到して、挙式の日取りの間に合わないほどの繁盛ぶりとなった。


そんな母の後を受け継いだのは、英子さんが結婚して子供も大きくなった頃だ。母から頼まれて家業を継ぐことを決心し、夫の理解も得て、忙しい社長業が始まった。塩瀬の伝統と父の意思を守り抜きながら、新しいことにもどんどん挑戦し、商売を全国に広げていった。

現在、英子さんは100歳。当主の仕事は息子さんに譲って、今は会長としての役割を果たしている。婦人公論の記事では、英子さんが次のように語っている。

こだわらない、うじうじしない。それは私の生き方でもあります。

今は毎日のんびりと暮らしています。毎朝お寝坊して、朝昼兼用のお食事。買い物は息子の妻と娘にお願いしていますが、自分の食べたいものを自分で作って食べています。100歳のおばあさんなので、油ものの食事は避けて、お魚や鶏肉中心です。

そんな英子さんは12歳から和歌を詠んでいて、その時々に心にパッと浮かんだものを書き留めている。例えば次の句。

利をはなれ 心のすべて 無なる時 有を生ずる 世とぞ知りたり

出典:婦人公論

これはずいぶん前に当主として不安を感じたときに詠んだ歌だと言う。目先の利に惑わされてはいけない。握ろうとすると逃げる。何事もこだわりすぎない、ということでしょうか。そう述べている。以下は記事からの引用。

人生は常ならぬもの。浮き沈みは必ずあります。沈んでいるときは、かつての夢にこだわらない。今はそういう時期だと受け止めて、無理をせず、でも絶対にやめないで、それなりでいいからとにかく続ける。

私は「やめない」と決め、沈んでも歩みを止めなかった。こだわらないのが一番。それが100歳の私の人生訓かしらね。

英子さんの100年の生涯にはこれまでいろいろなことがあっただろう。それを「うじうじしない」「こだわらない」と決めて家業を護り抜いてきた、その強さと生き方は本当にあっぱれだ。


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