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生きる 〜マイ・ブロークン・マリコを見て〜


こないだ、デートで『マイ・ブロークン・マリコ』を見た。
まあ、正直デート向きでは全くなかったけれど、本当にいい作品だった。
なんだか忘れたくない感情だなあと思ったので備忘録としてここに記す。

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極力、ネタバレがないように書きたいけれどなんだか無理そうな気もするので、映画を見たいと思う方はぜひ見てからこちらを読むことをおすすめする。
本当にいい映画であった。


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主人公シイナトモヨ(以後、シィちゃん)の親友、マリコは住んでいた部屋から飛び降りて死んだ。
シィちゃんはその死をニュースで知るわけであるが、マリコの弔いの旅をする。

私の感想は「私が自死を選んだ際の世界線だ」と思った。
他のnoteでも記している通り、私は本気で自死を選ぼうとしていた。

(もし良ければ、下記も見てほしい。)


私は、メンタルは回復してきているし、楽しく生活できている。
今はまだ100点の生活はできないけれど、70点の生活はできるようになった。
それでも、どうしても、私が自死を本気で選ぼうとしたあの時の、ざらついた感情は忘れることができない。

映画選んだのは私なのだが、上記の通り楽しく過ごせているのですっかり大丈夫だと思い込んでいた。
というより、この作品を見て初めて気づいた。
「誰かが自殺してしまう」ような作品をみんなと同じように純粋な気持ちで観ることはできないんだなあと。

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親友マリコは典型的な「境界性パーソナリティ障害」みたいな感じで、
あまりにも自己中で、私からは想像もつかないほど寂しい人だった。
実父から純粋に愛されず、人との距離感がわからない。
実父のように自分に暴力を振ってしまうような人を好きになってしまうし、そんな人でも自分の元から去ってしまうことを極端に恐れているのか、暴力を振るわれると薄々気づいていても、呼び出されたらそんな男の元へ向かってしまうような、そんな女。

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余談だが、私も父との記憶ってそんなに多くない。
高校の時に離婚したけれど、それまでちゃんといた。
それなのに、私は父との思い出は少ない。
父が不憫な環境で育ってしまったことを母に聞かされたけれど、彼の子どもの私からしてみれば、そんなこと関係ない。
まあ、上記のような環境で育ってしまい、家族で出かけることが少なかったみたいで、私たちとも出かけることは少なかった。
正直なことを言うと正しい“父との距離感“がわからないし、心から私を愛してくれる存在か(そう思えるか)と問われると即答することは、できない。

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この映画がすごくリアルに感じたのは、家庭環境が最悪レベルMAXのマリコの親友が家庭環境悪いレベル3くらいの主人公シィちゃんであることだ。
これは、めちゃくちゃ偏見であるが、家庭環境が悪い子の友達は家庭環境悪いがちであると思っている。

映画内ではシィちゃんの家庭環境は具体的に描かれていない。
わかるのはシィちゃんちが離婚していること、そして中学生でシィちゃんが喫煙していること。

これだけでみると、私の家はシィちゃんちとマリコの家の間くらいの家庭環境だったんじゃないかな。
私の家庭環境については下記をどうぞ。

私の偏見に違わず、私の友人たちもなかなかに家庭環境が悪い。
もちろん、具体的には記載しないが私と同じように学生時代たくさん苦労して生きている。

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上記の通りシィちゃんとマリコの家のような家庭環境出身かつ、似たような育ちの子が周りにいたからこそ、私はシィちゃんの気持ちというか行動心理がわかってしまう。

シィちゃん自身も問題を抱えているのに、マリコに傷つきながら精一杯向き合う。
なんというか、これは精神的に余裕があっての行動では決してない。
自分も十分崖に追いやられているのに友達の方が崖の先の方にいて、救わなきゃって、自分のことは後回しにしてしまう。
わかる方はわかるのではないだろうか。割とありがちだと思っている。

シィちゃんは旅の途中で出会うマキオにこのように言われる。
「ご自分のことを大事になさってください。」
映画を見ていた時はスリに遭ってしまい、荒んだシィちゃんを見て言ったのだと思っていたけれど、このnoteを書いているうちにこういうことも見越した発言だったのかなと思った。考えすぎかな。

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シィちゃんはマリコ向かってこういうふうに叫ぶ。
「私がいたろ。」

映画を一緒に見た彼もそこが刺さっていたみたいだし、YouTubeのコメ欄も「こんなにどん底でも友達に頼れば救いはある」と言っていて、みんな純粋な心を持っているんだな、と素直に思ってしまった。

これは私の感想でしかないけれど、正直、自殺に追い込まれるとき、「誰かの顔を思い浮かべること」はあっても「誰かに助けを求める余裕」なんて残されていない。
というか、(実際はどうか別として)本人は"十分ヘルプを出している、なんでみんな手を貸してくれないんだろう"とすら思っていそうである。
私がそうだった。他人ってそんなに人のことを見ていない。
私を頼れ、とか、私と一緒に死んでくれって言ってくれよ、なんて受動的じゃ自殺にまで追い込まれている人を救えない。

自死を選ぼうとしていた私も手を差し伸べられたから、その手を取れただけだ。
そんな状況下の手の稼働範囲なんてほんの数センチだ。手をしっかり差し伸べてくれないと、全く届かない。

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シィちゃんはきっと弱くて、苦しさをタバコに預ける人なんだろう。
セッターを吸っていて芸が細かいと思った。中学生の頃からタバコを吸っていて軽いタールじゃもう物足りないんだろうな。

もちろんシィちゃんもたくさん問題を抱えて生きているだろうし、自身の家庭環境もよくない中で、ある意味、そんな“苦しさ“から現実逃避させてくれるのが、“めんどくせぇマリコ“だったんだろうな。
決して軽蔑も、同情もしないけど、マリコの方が自分より荒んでいるから、まずマリコを救わないといけないから、自分の問題を見ないで済む。というか。

この旅は、きっとマリコを弔う旅でありながら、シィちゃんが自分と向き合うための旅だったんだろうな、と思った。
表面的には見知らぬ土地で野宿できるほどタフだし、がさつだ。
親友の死をニュースで知ったこともあるのかもしれないが、“危うい“親友の死を受け入れて、「ちゃんと飯を食べて、ちゃんと風呂に入って、ちゃんと寝る」みたいに自分を大事にするのにはしっかり咀嚼する時間が必要だったんだろうな。
そういう背景もあるし、彼女の自死から救えなかった、ますますシィちゃんにとってマリコの存在が大きくなった。
マリコはシィちゃんにとって、唯一の親友であり、呪いだ。

最後、マリコの骨壷(遺骨)は男に襲われた女の子を救うために咄嗟に犯人を殴るために使われた。
女の子を救うことが、シィちゃんにとってマリコを救うための疑似的な儀式であったし、骨壷で犯人を殴ることで、それでマリコの遺骨が意図せず「まりがおか岬」に撒かれてしまうことで、シィちゃんがマリコの“呪い“から解放されたのである。

もし、万が一、あの時、私がワークマンで購入した紐を使ってしまっていたら、
こういう“呪い“を友人たちに、家族たちにかけてしまっていたんだろうな。
本当によかった、生きていて。
シィちゃんは“儀式“ができたけど、現実はそうはいかないだろう。
きっと死んでいたら。少なくともあの時心配のリプをくれていたみんなを苦しませてしまっていたんだろう。

***

結局、私たちは日常を生きている。
それって思っているよりエネルギーがいることだし、それができていわたしたちってめっちゃ偉い。

シィちゃんもマリコの呪縛から解放されて、自分の日常を生き始めた。

自殺したいと思う心情は「死んで誰かに私の存在に気づいてほしい」とかだと思うのだけど、死んだところでどうせいずれみんなは日常を生きてしまうし、その心情や願いは叶えられないってことを描いているのかな。違うかも。

***

私は、結局死ねなかった、死ななかった。
当時私は「死ぬことさえできないなんて、とことん弱いなあ、自分て何にもできない」と本気で思っていた。
生きているなんて、ただ死を選ばなかった結果でしかないと思っていた。

でも今は違う。
恥ずかしいけれど、でもちゃんと言う。
生きていて、死ななくて、本当によかった。

その後も、たくさんいろんなことがあった。苦しいこともあった。
休職して、人生の足踏みをした。
好きだと思った人に蒸発された。

でも、これからの人生も多分カラフルなんだろうなあ。
だから、生きていてよかった。






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