現代に疲れた私はロシアの古い怪奇小説の世界に逃げることにした#1
なんだか最近は、電車の中でロシア語の本を持っているだけで「ケガレ」みたいに扱われる。
いや実際、私も、家にあるロシア語の教本とか辞書を全部捨てようかと迷った。文字を見るだけで生理的にイラッとくるのは確かだ。
でもやっぱり、それはそれで乱暴だ。
そう思った私は、現代のロシアをガン無視して読書できるように、できるだけ通俗的な、しかも古い時代の、ロシアの怪奇小説に逃げることにした。
以下の自己紹介記事でも述べたとおり、私は世界各国の怪奇小説やフォークロアに目がない。当然、ロシアのものもいろいろコレクションしている。
そういう中でも、たとえば、
オドエフスキーとかブリューソフとかザゴスキンとかに埋没していれば、現代のロシアを忘れられる。オドエフスキーの「四三三八年」なんて想像力がぶっ飛び過ぎていて、ロシアのモノという感じすらしない(よーく読むと、なるほど舞台は西暦4338年のペテルブルクなんですけどね)。
というわけで、比較的、短いものを、と、
パブリックドメインで出ていた、オドエフスキーのПривидениеを手に入れる。
、、、しまった!ロシア語原文だ。たとえ機械翻訳の力を借りてもさすがにこれは読みきれない。。
よく調べると、以下の文庫に日本語訳が載っていた!こちらを手に入れて、日露対訳として読む。これでやっと、読み切れた。
、、、と思ったのですが、
え、え、え?ナニコレ?いったい、ラストは何が起こったの!?
二重三重の「メタ語り」になっているので私の頭は大混乱した。幽霊が出てくるゴシック小説かと舐めてかかったら、構成の複雑さにやられた。やばい、一回じゃ理解できなかった。
もっかい、今度はノートを取りながら、慎重に読むことにする。
そうしているうちに、ありがたい。
これですよ、この感覚、19世紀に書かれたロシアの怪奇小説なんぞに集中していたら、アタマから完全に、現代のロシアのことなんぞ忘れて、無視できている、この感覚。
やはり、古典の読書は、いい。
現代の地獄を忘れられるから。
そう、ロシアに限らず、21世紀のリアリズムvs19世紀のロマン主義と並べるなら、どう考えても私は後者に軍配をあげる。きっと啓蒙時代が終わった後に、世界史はトワイライトゾーンに迷い込んで、そこからまだ抜け出せていないのだ。きっとそうだ。
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