『市民ケーン』がどことなく幽霊映画のようにブキミに見えること【これも広義のフェイクドキュメンタリー?!】
「好きな映画はオーソン・ウェルズの『市民ケーン』です」
なんてことを言う奴は、スノッブぽくて嫌だ!・・・と言いたいところだが、何てこった、この私は『市民ケーン』大好きだ。スノッブぽいと言われちゃう?ええい、かまわん、言ってくれ!
何がよいのか、どこがよいのか、そう訊かれたら、なかなか答えるのは難しいが、
カッコイイから!
となります。オーソン・ウェルズという人間の姿形がカッコイイから、と言う話じゃありませんよ(※まあ、この頃の彼はハンサムでたしかにカッコイイけど、ここでの話題とは別)。
撮影の仕方が、いちいちこだわっていて、カッコイイ
となりますか。
敢えてスノーボールの球体面に人物を反射させて撮影したり、
奥さんが自殺未遂をするシーンで、手前の薬瓶に敢えてフォーカスして、蒼白になっている奥さんの顔を背景に溶け込ませる、とかね。
だが、いや、それだけでもない。撮り方にコダワリがある映画なら他にもいろいろある。この映画のカッコイイところは、もうひとつ、メタなレベルにあって、
一人の男の「見かけは華やかだが中身は寂しい」という人生を描く映画で、撮影した画面がいちいち美しいことが、テーマと合っているから!
じゃないですかね?
まさにこの『市民ケーン』という映画の中では、主人公が自分の奥さんをオペラ界のスターに何とか仕立てようとして、
見かけだけが豪勢だが、集まった観客はみんな(何せ義理で集められた観客なので)シラケてるオペラ
という虚しい全米ツアーを敢行する場面がありますが、それがそのままこの映画に合っていて、
ひとつひとつの画面の、構図とか、光の当て方とかが、いちいちオシャレなのに、物語の中の肝心の主人公は、そんなオシャレ画面の中でどんどん惨めな老人の風貌に落ちていく
というのが、やばい、泣ける!
オーソン・ウェルズ自身はこの映画をめちゃくちゃ若いうちに完成させた天才ですが、実際にはこの『市民ケーン』は、中年以降の男性に「わかる」渋み溢れる悲劇ですよね。
もしかしたら、オーソン・ウェルズ自身も、中年になって見返した時に、「あ、俺の作った映画の味ってこういうことだったのか」と理解したんじゃないかな、、、?
ところで『市民ケーン』って、どことなくブキミなところもある映画じゃないですか?
そうは思いません?私がホラー映画の見過ぎだから、『市民ケーン』すらそういう目で見てしまっているのかな、、、?
いやともかく、自分の印象を大事に、どこがブキミかを話しましょう。
それはつまり、
暗号『ローズバッド』の意味が実は解決されていない!!
ということなのでは?
「そんな筈はない!ラストでちゃんと、謎の言葉『ローズバッド』の意味は、子供時代の思い出の言葉だったと示されたじゃないか!」
と思う方は多いでしょう。ですが、どうもこのローズバッドは、単純ではない。
・そもそも映画のラストシーン自体、観客への「考察ヒント」としてぶん投げで与えられたもので、正解とは明示されていない(主人公のケーン自身が本当にこのことを言いたかったのか、本人の意図は結局はは不明のまま)
・伝記的な話になるが、オーソン・ウェルズはこの「ローズバッド」に、当時のアメリカに実在したある新聞王への性的な揶揄の意味を込めていた、という証言もある。クリエイターのオーソン・ウェルズ本人がダブルミーニングとしてこのキーワードを意図していた!?
とかとかで、実を言うと、
この『ローズバッド』がなんなのかは、観客の考察に委ねられた、ポッカリとした「謎は謎のまま」状態
と私は思った。
だいいち、この『市民ケーン』、
前半がニュース映像形式だったり、後半もあくまで「関係者たちの思い出話」で構成されているわけなので、
一種のフェイクドキュメンタリーとも取れるのですね!!
そうなのです。かの日本の誇るフェイクドキュメンタリー番組、「放送禁止」シリーズのように、
この『市民ケーン』という映画で語られている、主人公ケーンの人生や彼のお気持ちなども、
事実の積み重ねが真実とは限らない!
そしてこの映画は、スタートした時点で主人公は死んでいる映画ということで、実は幽霊映画ともとれるのだ!
そしてそんなふうに見た時、クリエイターであるオーソン・ウェルズ自身が、とにかく自分の実人生やキャリアをもわざとらしく脚色したり、誇張したりして、後世のファンを数々のフェイクで煙に巻いてくるタイプのスターだったことを考え合わせると、
『市民ケーン』は見かけ以上の謎に満ちた、一筋縄ではない怪物的映画とも言えるのです!
まだ見たことがない方は、あまりに有名なこの古典名画、いろいろな機会で見られる作品なので、是非!