書かなくてもいい日々を書き続ける意味
最近、「このネタについて書きたい!」と思うよりも、「私note書いてるのってなんでだっけ?」と考えることが増えた。
別に書かなくてもいいよ、と言われたら、きっと数日書かなくなるだろう。でも、「なんか知らんけど私にとっては書くことが使命だから!」みたいな勢いで、いつもなんとなく書いて公開している。
一度始めたことは長く続ける特性と、やっていくうちに生まれた使命感で努力して乗り切ろうとする思考回路は、ここでも強く役立っているらしい。
考えてみれば、noteをはじめ、自分の外に公開するものに関しては、かなり神経を使う。
過度な個人情報、誤字脱字、変な文脈がないか。
そして、人からどう見られるか。
果たして、どんな反応を貰えるのか。
そもそも見つけてもらえるのか。
何人にスキしてもらえるのか。
そうした一喜一憂で、好きで始めたことのはずなのに、一気に疲れてしまうときがある。
なんか疲れてんな…と思った矢先、思い出した。
そうだ、私、自分ではどうしようもできない部分をどうにかしようとしてるから、苦しいんだな、と。
noteに限らず、人からポジティブな反応を貰ったら、とても嬉しい。
だけど、貰ったものがネガティブだったり、何も貰えなかったりすると、期待した分がっかりするし、無駄に考えすぎて嫌な気持ちになる。
私は、少し前から、何かに迷ったり悩んだりしたとき、
自分が幸せを感じられているか?
を最優先事項として考えるようにしている。
どんな事情や状況があれど、今自分がハッピーなことを考えられないくらい気分が下がっているなら、それは一大事。
人のことを優先しすぎていないか?
最近体のどこかに異常が出ていないか?(私は最近唇に熱の花ができたぴえん)
「大丈夫」と口にするときは、”何が”大丈夫かをわかっているか?
今週、嫌なことがあった。
自分の正直な感情が人に見せられないくらい黒くて、「こうしてればよかった」と思うようなこともあった。寝たら大抵直る、とわかっていても寝たくなかった。
結局、寝て起きたら少し気分がマシだった。睡眠の大切さを思い知った。
そして、何度同じようなことを経験して学びを得ても、実際に思い通りに心をコントロールすることは難しいんだってことにも気づいた。
嫌なことがあったらこういう気分になって、そうしたら私はいつもこういう行動をして、どう対処して…
と小さい頃から経験してきて、以前よりは上手になったとは思う。
まあ、”多少落ち込みつつ、どう対処したらいいか考えて行動もする”っていうことができるのは、そこまで落ち込んでなかったということでもあるけど。
めちゃくちゃ落ち込んだなら、それはそれで。
とことんまで落ち込める環境を整えて、ひとりで失恋ソングでも聴きながら泣けばいいし。何もせずぼーっとするのでもいいし。
大丈夫。上手くいってる。
人と自分、過去と未来。
変えられるものと変えられないものを分けて考えられるようになることが、noteで良いモチベーションを持続させるための第一歩でもありそうだ。
人に期待しないからこそ、ふとしたときにスキを貰えて嬉しくなるし、
心に余裕ができて小さな感謝を大事にできるし、
いい意味で、沈んだ心から早く復帰できる。
つい先ほども、スキを押してくれた人のページへ飛んでみた。
ありがとう、と思いながら。
どうしてスキしてくれたんだろう?
一体どんな経路でこの記事を見つけたんだろう?
とワクワクしながら。
相手との距離を保ちつつも、
心の込められた文章に触れられるnote。
まるで手紙みたいで、楽しいよね。
転んでは起き上がる、という繰り返しの日々を記録して、私の学びにするための場所。
そして、書くという変わらない行為で、少しずつアップデートしていく自分の心の動きを見るための場所。
これからも変わっていくであろう情熱や目的に関係なく、なんとなく存在するゆるい居場所。
これが、わざわざ書かなくてもいい日々を私が書き続ける意味。
あなたがnoteを書くのは何故ですか?
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