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言葉って悩む人のためにあるのかもしれない

何も批判されてないのに自分を許せない自分が嫌だ
         ― 220623の私より

大抵のことは、他人と一緒の方がいいと思っていた。

違ってもいいのは、誰かより優位に立てたときや、褒めてもらえて気分が上がる一時的な場合だけ。

自分が苦手なもの。反応に困る経験。さすがに”素敵”とは言い難い趣味。

誰かに言われたのかもしれない過去の薄い経験を、今の自分にも反映させて、勝手に悲しがる自分が嫌いだ。

ついでに言うなら、他人に言ってみたら心が軽くなるかもと思うのに、言わないでいる自分も嫌だ。

「どうせ大したこと言ってくれないんだから時間の無駄だ」と、いくらでも言い訳製造機になってしまう自分も。

そうやってずっと我慢していると、言い訳すら誰にも共有しなくなって、感覚が麻痺してきたように思えることもある。

八つ当たりをしそうになる自分も、”この人は冗談でも文句言いそうだから、相談したくないなー”などと人をジャッジしだす自分も。

”でも、そんなのふつうじゃないか”という自分もいる。

”ふつうってなんだよ、世の中にはふつうなんてない”という自分もいる。

「繊細だね」と言われれば、確かにそうだ。
私の今の状況を、たった一言でできる限りすっぽりおさめるには十分すぎる言葉。

そして、今度は、誰かが私を思って言った言葉ですら”気に入らなくなる”。

こんなことは今までも何度も体験してきているのに。

今までもなんとかなってきたから大丈夫だと思いたいけれど。

なんだか無視してはいけないような気がして、だけど心と矛盾して体は”やらなきゃいけないこと”で苦しみを殺して。

今は対処法がわからないんじゃなくて、わかってるけど前に進めないことの方が多い。

原因追究から逃げたい。自分を諦めたい。言いたくない言葉ばかり浮かぶのは、いつも変わらない。

きっと、話してみて”なんだ、大したことないじゃん”と気づくのが怖いんだ。

”たまたま暇になったから悩んでるだけ”

「一理ある」自分のなかの一人の意見を、この長い長い脳内会議のまとめとして無理くり絞りだす。

やめようと思えばいつでもやめられる。

その事実は、この世界が終わらない限り、事実のまま。

だけど、それでもやめないのは、自分のプライドだったり、なんやかんや悩むのが好き(?)だったり、心地よい瞬間を忘れずにいられるからだろう。

悩めば悩むほど、言葉はいくらでも出てくる。

蛇口をひねればおいしい水が出てくるのとほぼ同じ原理だと思う。

言葉って悩んだ人のためにあるのかもしれないな、と思い始めてきた。

無理やりにでもポジティブに七転び八起きし続けるんじゃなくて、悩んだら少しでも立ち止まって、その苦しみを”ああ、好きだな、この瞬間が”という思考に変換できるように文字化していく自分が好きだ。

許せない自分を、なんとかヒーリングしたい。

変わっててもいい。

何度も打ち直し、勇気を持って書き足していくこの瞬間1つ1つは宝物だ。


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