言葉って悩む人のためにあるのかもしれない
大抵のことは、他人と一緒の方がいいと思っていた。
違ってもいいのは、誰かより優位に立てたときや、褒めてもらえて気分が上がる一時的な場合だけ。
自分が苦手なもの。反応に困る経験。さすがに”素敵”とは言い難い趣味。
誰かに言われたのかもしれない過去の薄い経験を、今の自分にも反映させて、勝手に悲しがる自分が嫌いだ。
ついでに言うなら、他人に言ってみたら心が軽くなるかもと思うのに、言わないでいる自分も嫌だ。
「どうせ大したこと言ってくれないんだから時間の無駄だ」と、いくらでも言い訳製造機になってしまう自分も。
そうやってずっと我慢していると、言い訳すら誰にも共有しなくなって、感覚が麻痺してきたように思えることもある。
八つ当たりをしそうになる自分も、”この人は冗談でも文句言いそうだから、相談したくないなー”などと人をジャッジしだす自分も。
”でも、そんなのふつうじゃないか”という自分もいる。
”ふつうってなんだよ、世の中にはふつうなんてない”という自分もいる。
「繊細だね」と言われれば、確かにそうだ。
私の今の状況を、たった一言でできる限りすっぽりおさめるには十分すぎる言葉。
そして、今度は、誰かが私を思って言った言葉ですら”気に入らなくなる”。
こんなことは今までも何度も体験してきているのに。
今までもなんとかなってきたから大丈夫だと思いたいけれど。
なんだか無視してはいけないような気がして、だけど心と矛盾して体は”やらなきゃいけないこと”で苦しみを殺して。
今は対処法がわからないんじゃなくて、わかってるけど前に進めないことの方が多い。
原因追究から逃げたい。自分を諦めたい。言いたくない言葉ばかり浮かぶのは、いつも変わらない。
きっと、話してみて”なんだ、大したことないじゃん”と気づくのが怖いんだ。
”たまたま暇になったから悩んでるだけ”
「一理ある」自分のなかの一人の意見を、この長い長い脳内会議のまとめとして無理くり絞りだす。
やめようと思えばいつでもやめられる。
その事実は、この世界が終わらない限り、事実のまま。
だけど、それでもやめないのは、自分のプライドだったり、なんやかんや悩むのが好き(?)だったり、心地よい瞬間を忘れずにいられるからだろう。
悩めば悩むほど、言葉はいくらでも出てくる。
蛇口をひねればおいしい水が出てくるのとほぼ同じ原理だと思う。
言葉って悩んだ人のためにあるのかもしれないな、と思い始めてきた。
無理やりにでもポジティブに七転び八起きし続けるんじゃなくて、悩んだら少しでも立ち止まって、その苦しみを”ああ、好きだな、この瞬間が”という思考に変換できるように文字化していく自分が好きだ。
許せない自分を、なんとかヒーリングしたい。
変わっててもいい。
何度も打ち直し、勇気を持って書き足していくこの瞬間1つ1つは宝物だ。
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