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選択

 久しぶりに実家に帰り、母親と一緒に昼ごはんを食べていた。なんの用で実家に帰ったのかは忘れたが、実家で食べる母が作る料理には最も安心感を抱く。その日も同じだった。

 録画してある過去のイッテQを見ながら、食事を食べる。母とはたわいもない会話をするのみだ。普段何食べてるの?実家に帰る度に家族から聞かれる。おそらく僕の食生活に少しだけ興味があると同時に心配しているのだ。

 一人暮らしではあまり自炊もしない。というよりもあまり食べない。食べても1日2食。最近なぜかお腹があまり空かない。僕は生きるために食べればいいという質だ。食べるために生きるというタイプではない。あまり共感してくれる人はいないが。

 僕は母親に伝えないといけないことがあった。しかしなかなか自分からその話題にいけない。その勇気がない。いつも伝えようとは思うものの、母親や父親の顔を見ると今度にしようと思ってしまう。

 「サッカーをやめる」

厳密には、サッカー選手をやめる。

5歳から始めた。友達の影響だったと記憶してるが、あまり鮮明ではない。気づけばサッカーをやっていた。僕の日常はサッカー一色で、何を決めるにもサッカーが基準。そして両親は僕を自由にしてくれた。両親にとっても僕のサッカーは日常だったと思う。

 その日常と別れを告げる。

 自らの決断だ。きっかけは外発的なものだったが、最後には自分の頭で、心で決めた。新しい挑戦である。

 大きな覚悟を持って決断したものの、母親を前にすると、涙が溢れそうだ。話しはじめて、「サッカーをやめる」ことを告げた時、母親は見たことのないような暖かい表情をしていた。私は涙が止まらなくなる。あれほど考えて、決断したのに、溢れるこの涙はなんなのだろう。後悔ではない。感謝とも違った。

 名前のないあの時の感情に出会うことが、いつかまたくるのだろうか。ないかもしれないと今思う。

 人生とは、選択の連続である。
 誰かが言っていた。

 「サッカーをやめる」ことは私にとっての人生最大の決断だった。

 大きな決断には、その分痛みが伴う。僕は母親に話してそう思った。

 当たり前すぎて、わからないこと。
 近すぎて、見えないこと。
 手放してから、気づくこと。

 それらの尊さに、あの時、気づくことができた。あの決断がなかったら、おそらく今も気づいてないだろう。

 人生とは、選択の連続である。そして、その選択には、責任が伴う。選んだ道が正解か、不正解か。その答えは、僕の未来にしかない。その未来は、僕が作るものだ。 

 正解の道を僕が作っていく。そのワクワクは計り知れない。

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