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#03 船の旅、『ドリナの橋』を訪ねて ヴィシェグラード

セルビア在住の詩人、山崎佳代子さん連載『ドナウ 小さな水の旅』更新しました。今回は、ノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの小説『ドリナの橋』の町であるヴィシェグラードへ船に乗って向かいます。陽気なガイド役のゾラン氏、水の流れとともにセルビアの自然と歴史をたどる旅。

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「橋は、アンドリッチ文学の核を成す。世界の無秩序、死、無意味を克服し、希望の「彼岸」へ橋を架けようという悲願……。」


 夏のターラ山。バーンスカ・ステナへ、宿から七キロ半ほど歩く。森の坂道をゆくと、一時間半ほどで分かれ道に出る。細い道を進むと、苔むした白い石がマダラ模様を描き、最後の傾斜を上ると、一度に視界が開ける。絶壁の頂に作られた木製の柵の下は、目眩がするほど深い谷。眼下に、ドリナ川を堰き止めて造られたペルチャッツ湖が、緑の瞳をひらく。ドリナ川は、湖に流れ込むとダムを下り、北西へ流れていく。鳥が翼を広げ、空を横切る。渓谷にはわずかな水で生きる針葉樹が、灰緑を添える。

 昔は、バーンスカ・ステナに泉があった。トルコ語でバーニャは温水、ステナはセルビア語で岩を意味する。真冬も水は摂氏四度を保ち、村人が水を汲みに来たという。村まで水を運ぶのは辛かったろう。ドリナの対岸には、匠が集落を成していた。かつては、森から伐採した木を岸辺に下ろし、筏に組みドリナ川で運んだという。急な斜面から、どうやって材木を下ろしたのか……。今は、山道をたどりトラックが材木を運ぶ。

 展望台からの眺めは、セルビア屈指の絶景に違いない。山道を歩いた疲れは、一度に報われる。ドイツ人の家族が歓声を上げ、写真を撮っている。川を境に、対岸はボスニア・ヘルツェゴヴィナで、ユーゴスラビア内戦以後、異国となった。対岸の丘にイスラム教の寺院の尖塔が点在し、セルビア人の村とムスリム人の村が混在、複雑な民族地図を描く。

 ペルチャッツ湖は西南にのびて狭まり渓谷がはじまり、ドリナ川は蛇行して見えなくなる。湖を船がゆく。ヴィシェグラードへ向かう観光船だ。ノーベル賞作家アンドリッチの小説『ドリナの橋』の町。あの橋に会いたい……。

 五日後の八月二十三日、水の旅に出た。早朝、ターラ山を車で下り、ペルチャッツ湖の波止場に向かう。八月十九日の「主の顕栄祭」が過ぎ、太陽の輝きが褪せてゆく。水は冷たい……。ゆく夏を惜しむように、岸辺では女たちが水着に着替え、湖に飛び込んでいく。山影を映す深緑の水面が震える……。船は、春から秋の週末だけ運行、天候が少しでも崩れると欠航する。本日は、よく晴れた。

 九時に乗船開始、パスポートを提示する。ヴィシェグラードは外国なのだ。デッキに並ぶテーブルに、少し水を入れた空き瓶がある。何かしら……。灰皿よ、と隣の席の女の人が微笑む。見た目を飾らぬ、セルビア的な廃物利用。外国に移住し、夏を故郷で過ごす家族、子供連れ、質素な旅を楽しむ北欧の若者など、旅人たちが集まった。

 五二キロの船旅、ガイドは陽気なゾラン氏、自称独身。愉快な言葉にのせられ、クレカ(西洋ネズ、Juniperus communis)の火酒を頼む。「胃腸の炎症、膀胱炎を鎮め、喉の痛み、気管支炎に効く。そして愛の妙薬……」。クレカは、灰色をおびた紺色の実をつけ爽やかに香る。同席の夫妻と乾杯、火酒の琥珀色に魂がほぐれる。汽笛を鳴らして船は岸を離れ、白い波しぶきに陽光が踊る。

 辺りは国立公園だ。「文明から切り離された森は、野鳥、動物、植物、そして自分自身を守り続けてきました」と、ゾラン氏。石灰岩の灰色の肌に、時折、洞窟が黒い眼を見開いている。そこに至る道はなく、人は踏み込めない。釣り人が小舟を操り、近づくだけだという。絶壁を見上げると、ああ、見えた。五日前に私がドリナ川を見下ろしたバーンスカ・ステナの展望台だ。なんという高さ……。

 ターラの森には、オモリカ・トウヒ(Picea omorica)がある。氷河期に群生していた針葉樹で、ドイツで化石が発見されたが、今もターラ山の限られた地域に育つ。未踏の地であったこと、潤沢な地下水があるなど条件が整い、朽果てた草木が腐植土の厚い層を形成したためである。セルビアの植物学の父、ヨシップ・パンチッチがターラ山のドリナ川流域で一八七五年に発見。この地の木材は良質、ヨーロッパに輸出されてきた。セルビアの詩人、ラーザ・コスティッチが悲歌「サンタ・マリア・デ・ラ・サルーテ」に歌うように、イタリアのサンタ・マリア・デ・ラ・サルーテ大聖堂にも、この森の樹木が使われていた、とゾラン氏。旧ユーゴスラビアの鉄道の枕木もここから伐りだされた材木が使われたという。

 六キロほど川を上ると、大学のキャンプ場がある。水路以外に交通手段はなく、生物学や教育学専攻の学生が、文明から隔絶された生活を体験する。手を振る若者たち、私たちも手を振る。対岸の丘に、中世の城壁が現れる。ドリナはここの川幅が最も広い、とゾラン氏。だが、一一九七メートルに過ぎない。渓谷は深く暗く険しい。キツネ、羊、タヌキ、カモシカ、鹿、熊など、絶滅危惧種が棲息する。セルビアで登録された熊七十頭のうち、四十頭がターラ山に棲むという。植物相も豊かで、野草が麗しい。キノコだけで二百五十種。「毒キノコもある。食べれば即わかりますよ」と、ゾラン氏。ぎょ。

 七キロあたりの地点、右岸の丘はグルラッツ(Grlac)。セルビア語でグルロは喉のこと、川幅がぐっと狭まる。崩れかけた城壁が中世の面影を残す。オスマン・トルコの侵攻の前に栄えたパヴロヴィッチ候の検問所で、隊商をコントロールしていたという。はるばるイスタンブールから馬にまたがり、バルカン半島を抜けてアドリア海に向かう商人たち……。バルカン半島にスラヴ系の民族が移住するのは六世紀、遥か昔のローマ帝国の時代から、ドリナ川は東方と西方を結んでいた。香料や織物、銀細工、楽器や歌、踊りや食物がドリナを渡って異国へと伝わったのだ、と想いを馳せる。

「最も危険なのは、材木の運搬。伐採した丸太を組んで筏で川を下る男たち……」と、ゾラン氏。バイナ・バシタの夏の風物詩、ドリナのレガッタと呼ばれる船祭りは、参加者が各々の船で繰りだして列を組み、数日をかけて川を下る。岸辺で休み、釣れた魚を焼いて酒を酌み交わし、夜は焚火を囲んで歌う。祭りは、昔の筏下りたちの勇気を讃えるものだ、と初めて知った。
 
 八キロの地点で、渓谷の表情はさらに険しくなる。高みから、大きな鳥が空へ舞い出た。鷹の一種か。ダムが造られ、鳥も高い場所へ巣を移したのだろう……。「川の名のドリナは、ケルト語起源と言われています。様々な民族がバルカンに住んできたのです。さて煙草に「ドリナ」がありました……」スラヴ系の民族がバルカンに移住する前には、ケルト人が住んでいた。ローマ帝国誕生以前の話だ。ドリナは、長い歴史を流れる川なのだ……。「ドリナ」は、よく憶えている。サラエボ留学時代、ユーゴスラビア文学の演習は、まさに「ドリナ」の煙に包まれていた。助手のペーロ氏も「ドリナ」をくゆらせ、詩について語った。フィルターのないものは、赤箱にドリナとキリル文字で書かれていた……。

 思い出に耽っていると、二四キロの地点でドリナの流れに引き戻される。「右手をご覧ください。アンドリッチの短編「ジェパの橋」に登場する橋が見えます。ペルチャッツ湖が造られ、ジェパ村は水没。オスマン・トルコ帝国時代に架けられた橋は、あの場所へ移されました」とゾラン氏。一瞬、旧い石橋が遠くに現れ、水泡のごとく視界から消えた。ジェパ川はドリナ川の小さな支流、源流はジェパ山の頂にある。橋は、建築様式からしてオスマン・トルコ時代のものだが、名も年月も記されず、いくつかの伝説が伝わるだけだ。

 橋は、アンドリッチ文学の核を成す。世界の無秩序、死、無意味を克服し、希望の「彼岸」へ橋を架けようという悲願……。彼は多くの歴史資料にあたり、一九二七年、「ジェパの橋」を発表した。ユスフ宰相の伝説をもとにしている。

 ユスフ宰相は、ジェパ村の生まれ。当時、オスマン・トルコ帝国は、ボスニアのセルビア人の家族から人頭税として五年ごとに十歳ほどの優れた少年を徴集し、イスタンブールに連れ去り、特別な軍事教育を施し、世界最強の軍隊を編成する。セルビア人の少年たちは、家族も名も民族のアイデンティティも奪われ、異郷で育つ。ユスフ宰相もその一人だ。

 宰相となった彼は、故郷に善きものを贈ろうと願う。ジェパ川に架けられた丸木橋は厳冬には凍てつき、人も家畜も難儀すると知ると、イタリアの高名な匠を招き、橋を造らせた。急流に橋を架ける仕事は難航する。イタリアの匠は、橋作りに身も心も捧げ、粗末な小屋で、修道士のごとく清貧に暮らし、橋が完成すると報酬も受け取らず客死する。

 ユスフ宰相に、若い詩人から手紙が届いた。碑文に橋に刻むべき言葉が記してある。ユスフ宰相は、自分の栄誉を讃えた部分を削り、さらに自分の名も消す。ジェパの橋は、地上の富と名誉を拒んだ二人によって架けられた……。第二次大戦中、アンドリッチは、ナチス・ドイツの占領下のベオグラードに蟄居して、壮大な小説『ドリナの橋』を完成した。その詩学は、この短編がすでに示している……。

 やがて左岸に、白い石の群れが現れる。ステチャックと呼ばれるボゴミールの墓地だ、とゾラン氏。十一世紀から十二世紀にかけて、バルカン半島のスラヴ系民族のキリスト教化が進むが、ボスニアでボゴミールと呼ばれる宗教が生まれた。キリスト教から発した異端者たちと言われ、共同体を成して生活していたらしい。石群は、ターラ山やペルチャッツ湖の畔にも残るが、ボスニア全域に分布し、アドリア海の岸辺の町にも見られる。太陽や花など単純な模様をあしらった石の下に、誰が眠るのか。墓標に名前はない。船が右に大きく蛇行する。ズベズダ山、ストラッツ山などが青く山並みを連ね、人里寂しい風景が続く。

 右岸はミロシェヴィッチ村。第二次大戦中、一九四二年三月二十二日(セルビア正教では新婚夫婦を祝う祭日)、ウスタシャ(クロアチア独立国のファシスト部隊)による虐殺が始まり、人々はヴィシェグラードの橋を渡ってセルビアへ逃げようとしましたが、イタリア軍が封鎖、ミロシェヴィッチ村まで逃れてきたものの、六千人が犠牲となりました、とゾラン氏。民族問題やイデオロギーの論議を避けようと、記憶は封印されていたが、二〇〇八年に慰霊碑が建てられ、歴史書も刊行されたそうだ。村には、別荘らしい木の家が並び、水辺に男の人が現れる。子孫なのだろう。「あの山の頂を見てください。飲み水が湧き出る泉があります。泉は見張りの場所でした……」ドリナの水には、数多くの悲劇が溶けている。

 二時間半ほどすると、情景が光に潤み、柔らかさを増す。渓谷や山並みが消え、なだらかな丘に村々が現れた。川岸の道を、初老の村人が自転車をこいでいく。船はヴィシェグラードに入ったのだ。アンドリッチはこの町で少年期を過ごしている。象牙色の橋が、荘厳な姿をあきらかにする。この辺りで、セルビアのモラバ水系のひとつ、ルザヴ川がドリナに流れこむ。

 正午の陽ざしは強い。帽子をかぶりサングラスをかけて、船を降りる。船着き場で、またパスポートを提示した。同じ言葉が通じるのに、外国だ。ゾラン氏の案内で、アンドリッチ・グラードまで十分ほど歩いた。現代映画の鬼才、クストリツァ監督が社会活動のプロジェクトとして人口的に造った大理石の「町」は、総合的な文化センターとしての機能をもつ。新しいセルビア正教会があり、ソコロヴィッチ兄弟の銅像が立っている。

 ボスニアがオスマン・トルコの支配下に入ると、セルビア人のソコロヴィッチ家の息子の一人は、人頭税としてイスタンブールに連れ去られ、イェニチェリ(オスマン・トルコの常備歩兵)となる。彼は優れた若者に成長し、後に宰相となる。メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ(一五六五~一五七九位)、ヴィシェグラードに橋を架けた人である。実弟のマカリエは、セルビア正教会の総主教となり、兄弟は民のために力を合わせ、心を尽くしたと言われる。

 岸辺の「町」は、どこか映画のセットを思わせ、テーマパークといった風情だ。アンドリッチ関係の書物を収めた図書館、書店、映画館のほか、銀細工屋、菓子屋や喫茶店もあり、観光客でにぎわう。建物の壁のモザイクは、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」を描いている。郷土料理店のテラスで、ボスニア名物、チェバプチッチ(肉団子)とキャベツのサラダ、生ビールを注文して一息ついた。サラエボ留学時代の味だ。そこからヴィシェグラードの中心街に出て、橋へ向かった。

 岸辺には朽果てた家、派手な色合いの家などが無造作に並び、それぞれの家族の運命が水辺に影を落とす。浅瀬は澄み、魚の群れが遊ぶ。舟遊びの人たち、釣り人たち。水鳥が泳いでいた。この橋は、ドリナ川の流れのほぼ中間地点に位置する。大理石は、近くのヴィシェグラツカ・バーニャ山の石を切り出したもの、材木も土地のものが使われた。石と木を運ぶ過酷な作業は、アンドリッチが小説に記している。

 橋の中央にはカピア(トルコ語で門の意)と呼ばれる場所があり、昔の人はここに設えられた石のベンチに集まり、コーヒーや火酒を楽しんだという。ゾラン氏の説明に耳を傾ける。橋は全長一八〇メートル、幅六メートル、壁の厚さ六〇センチ。十一のアーチと九本の柱が壮麗だ。カピアの正面に立つ記念碑は、トルコ語で書かれている。いつのまにか、小麦色の肌の少年が、空き箱を手にして立っていた。「この子がセルビア語に訳しますよ」とゾラン氏。少年はよどみなく長い文を暗唱、拍手喝采。空き箱に、お金が投げ入れられる。黒い瞳を輝かせ、少年は仲間とともに右岸へカモシカのごとく走り去った。

 『ドリナの橋』は、メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ宰相の哀しい回想で始まる。一五一六年、十歳の少年は果物などを運ぶ籠に乗せられ、この町からイスタンブールへ連れ去られる……。夕闇にひびきわたる母たちの嗚咽が、水を幽かに震わせるように、川は憂愁を湛えていた。

 『ドリナの橋』は、この橋を主人公に、十六世紀から二十世紀までの町の歴史を物語る。帝国最高の宮殿建築家ミージャ・ミマル・シナンが指揮、六年の歳月(一五六五~一五七九)を要したという。オスマン・トルコの支配下でイスラム教に改宗しムスリムとなる人々、セルビア正教を守り続けた人々……。宗教は民族アイデンティティを変え、人の運命を操る。オスマン・トルコ帝国崩壊後は、一九〇八年にボスニアを併合したオーストリア・ハンガリー帝国支配下に置かれ、対岸ではセルビア人の独立運動が広がる……。小説は、橋がオースリア軍によって爆破される一九一四年で幕を閉じる。第一次世界大戦勃発の年、サラエボでフェルディナンド皇太子夫妻が暗殺された直後のことだ。

 小説『ドリナの橋』との出会いは一九七八年、夏の札幌である。大学の掲示板に貼られていたユーゴスラビア政府給費留学生募集の貼り紙を見て、スラブ語圏で生きた言葉を学びたいという思いに駆られた私が、図書館で見つけた一冊だった。オスマン・トルコ帝国とオースリア・ハンガリー帝国、東西の文明に引き裂かれ、翻弄されても、ドリナの両岸の人々は共に生きるほかない……。アンドリッチの「橋の哲学」は学生だった私の航路を、大きく変えた。書物は、人の身体を移動させ、新しい土地を与える。翌秋、私はサラエボで留学生活を始めて、バルカン半島に棲みついてしまったのだから。船の汽笛が鳴り、我に返る。

 午后四時、船は帰路につく。風が冷たい。デッキを下りて船室の丸窓から流れを眺めた。渓谷は夕映えをまとい、船は夕霧のペルチャッツ湖に入った。水浴の女たちの姿はとうに無い。

 書物は、人の魂を移動させる。棲む土地さえも、新たに与える……。宿にもどり灯をともすと、身体にドリナの波動が残っている。秋を告げる生女神就寝祭(聖母マリア昇天祭)が近づいていた。


(写真は提供による)

山崎佳代子(詩人・翻訳家)
一九五六年生まれ、静岡市出身。一九七九年、サラエボ大学に留学。一九八一年よりベオグラードに住む。詩集に『みをはやみ』(書肆山田)など、翻訳書にダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(東京創元社)など、エッセイ集に『ベオグラード日誌』(書肆山田)、『パンと野いちご』(勁草書房)などがある。セルビア語による詩集のほか、谷川俊太郎、白石かずこの日本語からの翻訳詩集を編む。セルビア語の研究書には、Japanska avangardna poezija(『日本アヴァンギャルド詩』)ほか、『日本語現代文法』を著わした。



▼山崎佳代子さんの詩集『みをはやみ』は書肆山田より刊行されています。


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