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教育、もやもや

私の仕事は、高校教員です。英語を教えています。

ただ、もやもやすることがとても多いです。

大学入試改革の時に、産業界が口を挟むようになって、なんだか英語が一気に産業化された、ビジネスライクなものが求められるような、そんな印象を受けたのを覚えています。

現場で働く教員は、そんなことだけを教えるために、自分の担当教科を教えているわけではありません。

授業は、私は楽しいです。でも、そんな風に感じるときばかりじゃありません。10年ごとに更新される、学習指導要領、それに基づく検定教科書。教え方そのものを変えることを、いつも求められる。それは仕方のないことだとは思うんですが、一方では、「おい、現場を振り回し過ぎじゃねぇの?」と考えることも多いのも事実。

外部英語検定試験の導入も急遽見送り。国語の共通テストの記述導入も見送り。そりゃそうだ、一度に50万人以上が受験するんだよ??それを公平性を保つのに、記述問題っていう、採点基準がぶれまくるものを、50万人という規模の試験で導入を考えるほうが非現実的だと思う。

だって、たとえば5点分の英作文の問題を、小テストや定期考査で出題したとします。

それだって、採点基準をしっかり決めておかないと、かなりブレます。一人だけで採点していてもブレるのに、複数人で採点していると、当然ブレる。だから、そのときに大事なのが、基準づくり。これが大変。慣れている、ハウツーがある教員ならよし。でも、そうじゃない現場だって存在します。

教員は、働いてます。

生活があります。

病気もします。

家計を支えています

精神疾患を患う人の割合は、一般企業の1.7倍だと、NITSオンライン研修で勉強しました。精神的にまいったときに相談できる人が格段に少ないのが教員なんだそうです。

私は、リストカットを繰り返しながら希死念慮を抱えてうつ病と戦いながら、いえ、共生しながら、授業をしています。もちろん、校務分掌もこなします。教諭ですから。担任もしています。

よく、子供のため、生徒のため、という言葉が見聞きされます。

もちろん、その考え方も大切です。でも、それのもとにすべてが正当化されることに、異議を唱えてもいいだ、という風潮になったのは、やっとここ数年だという気がします。

私は、10年後、まだ生きているのかな。

生きているとしたら、まだ仕事はしているんでしょう。この仕事は好きですから。

でも、その思いとは別に、不安・恐怖・焦燥感が追いかけてきます。薬の量は、やっとここ数年で少し減ってきました。でも、たった1錠減っただけで、それに慣れるのにものすごい副作用と戦うのです。そうしながら、今日も今日とて、職場に通う。

仕事だから。

生活するため。生きていくため。養うため。

自分が、自分でいられるように。仕事をしていないと、飲み込まれそうだから。

でも、仕事ばかりしていても、蝕まれる。

厄介だなぁ、と思います。

教育、か。もやもやします。

私たち教員は、他の社会人と同じく、歯車の一つ。

だから傷つくし、病気にもなる。

もやもやする。

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