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さやもゆ読書会ノート    『モモ』(ミヒャエル・エンデ作) さやのもゆ

掛川ほんわかブッククラブ読書会
(2024.7/27 掛川中央図書館にて開催)
本日のテキスト
『モモ』 ミヒャエル・エンデ 作
          (岩波書店、1976)

7月の読書会テキストは、ミヒャエル・エンデの代表作のひとつ、『モモ』。
はじめて読んだのは、30年ほど前。
〝モモという名のモジャモジャ髪の女の子VS灰色の時間どろぼうの対決〟ーといった設定までは覚えているのですが、肝心のクライマックスの記憶がまったく無い。
そんなわけで久しぶりの再読は、非常に新鮮なものでした。
また、若い時にはスルーしたであろう所を、年を経た今だからこそ、感じ取れたのが良かったです。
読書会に参加した(会員を含む)二十名の皆さんからは、それぞれの今や、思い出の中にある「モモ」を語っていただきました。

ーー(『モモ』・あらすじ )ーーーーーーーー
大きな都会のはずれにある、小さな円形劇場の廃墟(はいきょ)。ある日、ここに〝モモ〟という名の、変わった身なりをした女の子が住み着きます。
近くに住む大人たちは、小さなモモを心配しながらも、彼女の「ここにいたいの」という願いを聞き入れ、みんなで面倒をみることになりました。
こうして、モモと近所の人たち(大人も子供も)との友情が始まるのですがー。
そんな毎日の、人々の暮らしの中へー目立たぬように少しずつ、忍び込んでくる者たちがありました。
正体は、何から何まで灰色の男たち『時間どろぼう』。
彼らは、言葉たくみに時間の倹約(けんやく)をもちかけ、人間の時間を1分1秒と盗みながら増え続けます。そして、灰色の男が増えれば増えるほど、時間はさらに必要になっていく。
そこで、灰色の男たちは、ある大きな計画を企てるのでした。
彼らにとって、計画の邪魔をする唯一の天敵と見なされた、小さな女の子『モモ』は、巧妙な手口によって友達から引き離されてしまいます。

もとはと言えば、人間の負の産物として生まれたのが「時間どろぼう」なのですがー。
すでに、人間の手には負えないほどの大人数に、ふくれあがっていたのでした。

灰色の包囲網は、しだいにモモを追いつめていきます。
もはや、これまでかーと、いう時。
モモは、時間をつかさどる〝マイスター・ホラ〟とカメの〝カシオペイア〟に助けられ、無事に「時間の国」へ。
マイスター・ホラに重大なミッションを託されたモモは、ぬすまれた時間を取りもどす、最後の冒険に立ち向かうのでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
〈はじめに〉
あらためまして、皆さんこんにちは。今日は暑い中をお越しくださって、ありがとうございます。
今月の読書会は、ミヒャエル・エンデの「モモ」。会員2名からの〝推し本〟提案で決まりました。
初めて読んだ人も、読んだことある人も、いかがだったでしょうか?
それではー時計の逆回り順に、皆さんの簡単な自己紹介と感想など、お聞かせください。

📖 子どもに買った「モモ」。いつかはー?

(会代表から)当会は発足以来12年間、月に一冊ずつをテキストに読書会を開催してきましてー現在、約90冊になります。
「モモ」は30年くらい前に子どものために買ったのですが、それだけでは収まらないかも、という予感はありました。
今回、読書会テキストになって初めて読んだのですがー。「時間どろぼう」と、彼らの〝時間〟に対する考え方、というものが印象に残りました。

📖 どこまで読んだかは・・・?

僕は、読書会出席率0.2パーセントの、〝読書がダメ〟な幽霊会員です。
「モモ」はせっかくだからと、1ヶ月も前に買ったんですけど・・皆さん、僕の本をごらん下さい。はさんだシオリの位置で、分かりますよね(笑)?
とにかく、ひらがながが多くて読みにくかったんですよ~(と、言い訳?)。

📖 「モモ」は、チャップリンの時間版。

僕も同じく、読書会の出席率が悪いのですが・・「モモ」は、映画の「チャップリン」の〝時間版〟を観ているような感じがしました。
あとー今しがたまで、時間を盗られたかのように忘れてたんですが、報徳(思想)と一緒だな、と。
二宮金次郎(尊徳)が江戸時代、藩の経済を立て直す際に「お金は使わずに貯めて置いても仕方ない」という方針のもと、地方通貨・地域経済を循環させていった時の考えに通じていると、感じました。
「モモ」は「報徳」と同じだとー見直しました。

📖 〝時間の花〟が、帰ってきたみたいー。

「モモ」は知っていたけれど、本を読んだことはありませんでした。
この機会に、最後まで全部読み終えた時ー。
今までの自分の人生を振り返ってみたんですね。そうしたらー私に時間の花が帰って来たような感じがして。
さいごは「今、しあわせだなぁー」という気持ちになれました。

📖 児童文学と、あなどるなかれ。

私は当会の〝古参(こさん)〟会員です。
みなさん、「モモ」のことを、子ども向けの本だと思ってあなどってはいけませんー。
とくに第6章の〝時間どろぼうのインチキ〟は、今の現代(社会)批判にも繋がりますよね。
どちらかと言えば、モモのような現実社会を舞台にした物語よりも、読み手を別世界に誘って(いざなって)行く〝ハイファンタジー〟の方が好きなんですがー。
物語の本筋とは関係ないけど、モモと子どもたちの創り出した遊び「船乗りの冒険」には、オトナを介在(かいざい)させないドキドキ感があってー今との地続きを思わせる〝物語の中の物語〟になっていて、面白かったです。
作者(エンデ)自身、この物語を「先まで考えずに書き進めていった。私自身にも、冒険であった」と、振り返っています。

人間のなかで、ただひとり時間の国に呼ばれた女の子ー「モモ」。
私自身も身の底から、時間の花の描写をーしみじみと味わいました。

📖 〝だまって聞いてる〟とこが、イイ。

今月の読書会に「モモ」を提案したひとり、です。
「モモ」は、だいぶ前に姉から本を貰っていたのですがー私も、現実ばなれした物語のほうが好きだったから・・。
でも、最近になって友人から奨められたり、ほかの会員からも、お話があったのでー「これは今、読むべきかな」と、思いまして。

「モモ」で私が好きなのは、モモが(相手の話すのを)〝だまって聞いてる〟ところ。
〝癒し(いやし)〟にしろ、〝救い〟にしてもーモモのように〝だまって耳をかたむける〟のが良いのかなと。

📖 人は誰も、誰かの「モモ」になれる。

新聞で若松英輔のコラムを読んだ中に、「人は誰しも、自分のなかに〝モモ〟がいる人は、誰かの〝モモ〟になれる」と、書いてあってー。
本のなかでも、モモが話をきくと、みんなの空想がひろがる。
誰かのちからで、湧き上がる〝ちから〟。イイ表現だなと思いました。

📖 時間は、盗られてないと思うけど?

正直言って私は、本を全部読んで来ない常習犯(笑)。
私には、第7章「友達の訪問と敵の訪問」が、前半のクライマックスだと感じられました。全体のストーリー構成は「千の顔をもつ英雄」(ジョーゼフ・キャンベル作、1949)で言われてる所の、英雄がたどる行動パターンに似ていると思います。
浮浪児だった子どもが、物語のヒロインになるーそういう話かなと。
まだ読んでない後半を、楽しみにしています。

話は変わりますけど、私の友達が「本を読んでいる間に、勉強すれば良かった」と、言ってたんですね。
私にしてみれば、大学を出て30年経ちますがー断続的に寝そべっていたから、とくに時間は盗まれていないと、思います(笑)。

📖 好き勝手な生き方が、「モモ」に通じる?

私は、市内でゲストハウス「どこにもない家」を、主人と経営しています。
「モモ」は、過去に3回読んでいるのですがーどうしても、物語の最後のところを忘れてしまうんですね。
大学を卒業したころ、周りの人は「つまんなくなっちゃった」とか言ってるんですけどー。
私はと言えば、好き勝手に生きてるせいか、そうでもなくて。
もしかしたら、〝モモ〟と通じているのかもしれませんね。
自分の心のなかには常に、モモがいてー自分の声を聞く時間は取れないの?とか思いつつも、古民家(どこにもない家)で、みんなの声を聞くー。
そんな風にしたいです。

📖 生き方に悩んだときー再び手にした「モモ」。

僕は、小学校高学年の時に初めて「モモ」を読みました。その時は「面白いけれど、何か引っかかるものがある」と、感じたのを覚えています。二度目に読んだのは、その後だいぶ経ってからの・・35歳。
なぜかと言いますと、ちょうど単身赴任した時でしてー「果たして、これが正しい生き方なのか?」と、悩んだ時に「モモ」を読んだからです。

ー時間とはすなわち生活なのです。そして生活とは、人間の心の中にあるものなのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのですー
           (『モモ』95頁より)

時間と生活を、大切にする生き方。
家族との生き方を模索して、フリーランスとなった自分を後押ししてくれたのがー「モモ」でした。
現在のゲストハウスになる前、古民家の名前に「モモ」に登場する『どこにもない家』を使ったのですがー。
理由は、何をテーマにしようかと考えたとき、〝時間の価値を取り戻せる場所〟として、お客様をもてなしたいーそういう思いがあったからです。
ただ、著作権上の問題で、使って良いものか悩むところでしたので、黒姫童話館(長野県北信地方にある、エンデの記念館)を通じて出版社(岩波書店)につないでいただきました。
そうしましたところ、岩波書店さんがエンデのご遺族代理人からの返答を送って下さいました。
書面には、ご遺族が「どこにもない家」と作者ミヒャエル・エンデの結びつきを大切に考えているーとし、次のような要望が記されていました。

ーゲストハウスの施設概要には、その名前の由来がエンデ作の「モモ」から来ていることを明記してほしい。
ー「モモ」をテーマにした絵画がWebまたは実際に公開される場では、必ず「ミヒャエル・エンデ」の名前にも言及するようにしてほしい。
ーゲストハウスの皆さんが集まるスペースに是非、「モモ」を置いてほしい。
さいごに、権利者の強い要望としてー。
ゲストハウスの入り口に『どこにもない家』の看板を付し、併せて『ミヒャエル・エンデ』の名前も記してほしい。

ー以上の内容でメッセージがあり、金銭等の要求は一切、ありませんでした。
ご遺族の「『どこにもない家』と『エンデ』の結びつきを大切にしてほしい」という思いはーそのまま、エンデ自身の言葉のように感じられました。
ー司会よりー
モモがつなげてくれたみたい、ですね。
ゲストハウスにも、行ってみたいと思います。

📖 「どこにもない家」を知った後で「モモ」を読んだー

ゲストハウスの方の「どこにもない家」は、知っていたのですが、今回のテキストで読んだ「モモ」に「どこにもー」が出てきて。
「コレの事なんだ」と、ビックリしました。す
周りが「『モモ』はイイよ」と言うのでー読んでみたら、まるで今どきの世の中みたい。
スゴいなと思いました。
私も、時短とかしてたからー時間を盗られたかもしれません。だから、今は好きなことしようって、決めてます。
最近では「スキマ時間バイト」というのがありますがー「目覚めてよ!」って、言いたくなりますね。

📖 年を取ったせいか、「モモ」はイイ話。

「モモ」との最初の出会いは、大学の講義でした。その時は「読まされた」形のせいか、眠かったのを覚えています。
今回再読したところ、年をとった事もありーイイ話だと感じました。
「モモ」の日本語訳が出版されてから(1976)、およそ半世紀も経っているのにー。
時間どろぼうの灰色の紳士が、モモに話した言葉で、印象深かった所があります。

ー人生でだいじなことはひとつしかない。(略)それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。
ほかの人より成功し、えらくなり、金持ちになった人間には、そのほかのものー友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでに集まってくるものだー
           (『モモ』126頁より)
「モモ」の(本の中の)言葉ってーある程度は浸透してると思います。だから、自分が大事だと考える価値観を押し付けないほうが良いのでしょうね。
でも、その一方で子どもに対して「将来の夢は?」と、聞くときに、ついつい具体的な〝職業〟を知りたくなってしまいます。
洗脳されてるのかもしれませんがーこれは、価値観の押し付けではないかと。
それでも、今どきの高校生に接するときはー理解に苦しんでもーとにかく話を聴くようにしています。
(モモのように)人の話が聴けるようになりたいですね。
登場人物の中では、出まかせ話の観光ガイド・〝ジジ〟がいいなと思いました。

📖 作者・ミヒャエル・エンデの意外な国籍。

私は、もうすぐ一年?になる新参者。
モモを読むのは、初めてになります。
物語の舞台が〝コロッセオ(円形劇場)〟なので、作者はてっきりイタリア人かと思ったら、ドイツ人だったんですね。
スゴイ昔の話だけど(『モモ』の初版は1973年)、現代的な風刺が効いていると感じました。
私も、登場人物のオトナたちと同じく、時間どろぼうに時間を盗まれていると思います。
特に平日は、遅くまで仕事をしていますから。
だからこそ、あんまり仕事をやり過ぎてはマズイんですよね(笑)。

📖 昔、灰色の男にコントロールされてた?

僕は(生き字引、とは言わないが)読書会にほとんど出席しています。だから、いずれ皆勤賞の話があるかもしれません。
年齢的にもーもうすぐ、灰色の男に時間を盗られて「アチラ」に行きそうですがー(笑)。
唯一、読書会で知的な刺激をもらって、どうやらボケずに生きてる次第。
でも、これから先はどうなるか分かりません。そのうち、市の同報(どうほう)無線で知らせが入ったりして(笑)。
僕は元々、本は読まないんだけど(なのに、どうして入会したの?って女房に言われるけど)、
入ったからにはシッカリ読書してー人の意見もちゃんと聴いてます。
だけどー皆さん、ロクなことを言わないねぇ(皆笑)。もう少しインパクトのあるコメントがほしいな。
(ここでやっと)モモの話になるけどー。
第6章「インチキで人をまるめこむ計算」に登場する、床屋のフージー氏。
かれは、灰色の男に(ムダにした)時間を計算されたあげく、諭(さと)されてしまいー生活がすっかり変わりましたね。
時間を節約するあまり、床屋の仕事を今までの1/3で仕上げたりして。
結果的に、お金はあってもギスギスした生活になり、ゆとりも無ければ面白くもなくなったーと、いうところが印象にのこってます。
これは、過去の物語なんかじゃないー考えさせられました。
話は変わりますがー。昭和50年ごろ(1970年代)の日本は〝高度経済成長期〟でした。
あの頃は、だれもが皆、よく働いてましたね。
僕自身、家族を養ってる時で「時は金なり」という考え方だったからーそれこそ、働いて時間を売り渡してるようなものでした。
テレビCMで〝24時間戦えますか〟というキャッチコピーが流行したのを覚えてる人もいるでしょう。
今思うと、それも灰色の男のもくろみ通りだったのかな。
「時間とは、命(いのち)」(第6章)。人は皆、過去から未来へと過ぎていく時間をもらって、一日が終わるとその分、時間がなくなる。
219頁の、火を灯したロウソクの挿し絵にー落語の『死神』を思い出しました。
人は生まれた時に、命のロウソクを手に入れるのですがー命は有限。
遅かれ早かれ、いつかは尽きていく定めになっているのです。
年を取ると、6年前を振り返った時に、ついこの前のように感じるのだけどー逆に6年先のことも、近く感じるようになるんですね。
それは、年齢に相対するものでー数字で言うと、1/10だったものが1/80に短くなるような感覚でしょうか。
モモを読んで、『時』について深く考えさせられました。

📖 読書会参加者の様々な視点はー広くて深い

3ヶ月前に入会したばかりの、ホヤホヤ会員です。それまで、読書はしてなかったのですがー今日はモモについて、色んな角度からとらえた感想を聴くことができました。
広くて深いお話・・ココに来れば、みなさんから文学エキスをもらえそうですね。
「モモ」は、時間がテーマの物語ですがー。
とくに、第6章の「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそってー(95頁)」というくだり。ココが一番、時間について書かれていて、心に刺さりました。
自分の意志で時間を節約するなら、いいけれど、意図しないところで節約するのはー本意じゃない。
自分の意志で時間を使ってると自覚することが、大切だと思います。
「モモ」は〝大人が子どもに読ませたい本〟ではありますがー。
ただ、実際に子どもが読むことで〝本当の時間の使い方〟に気づくのかな?とも、思うんですね。
あるいは、読ませるがために児童文学としているのでしょうか?
もし、そうだとしたらー仮に子どもが読んだとしても、まだ読み方が浅いのかもしれません。

📖 なぜか〝床屋の計算シーン〟だけ、覚えてる私。

私は、小学校中学年から「モモ」を読んでいるのですが、大事にし過ぎてしまったせいかー今回は読んで来ませんでした。
それで、ストーリーを思い出そうとするとー何故か「床屋の(ムダ時間)計算シーン」(第6章83頁~)のところだけ、妙に覚えてるんですよ(笑)。
登場人物では何といってもモモが、「聞く人」だったこと。それと、周りの人たちに人間臭さがあって魅力的ですね。みんなが、モモの帰りを一年も待っていたことのツラさを、キツく感じました。
現在、子育て中なのですが、そういえば子どもと思い切り遊べてなくて、さびしいなぁーと。
話は変わりますが、私は黒姫童話館のテレカを持ってるのが、自慢です。
応募した作品が入選したときに頂いた物なんですけどー。
今もお守りのように、大切にしています。

📖 すぐには役に立たなくても、〝ゆとり〝を持って。

私は、ふだんの読書量が月に10~20冊なのですが、文学作品は読んでいません。
ですから、今日の読書会は貴重な機会と思って、参加しました。
みなさんの感想などをお聞きして、一冊の本に対して、色んな見方があるということを学んだように思います。
モモは小学生の時に出会った本なのでー今日は実家にあったものを持参しました。

高校生と小学生の子どもが高久書店(掛川市の走る本屋さん)によく行くのですが、それは
とっても良いことだと思います。
いま思い出したのですがー神奈川県の伊勢原市に「カンガルーハウス」という本屋さんがありましてー。
店内にはミヒャエル・エンデはもちろん、ロアルド・ダール(『チョコレート工場の秘密』の作者)など、子どもたちに読んでほしい本がたくさん詰まってます。
最近、「なぜ働いていると本が読めないのか」という本を読んで、思うところがありましたがー。
私は実用書だったら、ちょっとでも時間を見つけては読むのに、即戦的に使えない本は読まないところがあるなぁーと。
これからは、すぐに役に立つ本でなくともー〝ゆとりを持って自分の中に落とし込む〟ような本を読みたいと思います。

📖 時間を取り戻して、豊かに過ごしたい。

「時間どろぼう」と、言えばー思い出すのは「失われた10年」の停滞期です。
その頃私は、製造業の工場に勤めていましたがー企業理念のために、少ない時間にたくさん作るという働き方をしていました。。
あの時は、そんな中に身を置いていたのです。
そんな私にとって「モモ」は、自分のための時間をつくることを教えてくれた存在でした。
今は、読書や趣味などの時間を持つことが、自分の時間をとりもどす事だと感じています。
年と共に、時の経つのが早くなった気もしますがー自分の時間を、豊かに過ごしたいですね。

📖 時間のもつ、「価値」と「意味」。
そして、モモからのメッセージとは?

モモを考えるときに、二つの時間を念頭におくと、解りやすくなるかもしれません。
ひとつは「カイロス(Kairos)」で、流れない〝時刻〟。人の主観で定められる〝その時〟でもあります。これに対し、もうひとつは「クロノス(Chronos)」。こちらは、規則的に連続して流れていく〝時間〟を意味しています。

高度経済成長期では、進歩や発展が、価値あるものとして、評価されてきましたがー。
ここで時間について考えるにあたってー「価値があるか無いか」だけで結論づけるのではなく、「意味」としても、考えたいと思います。

モモは、物語のなかでー『命の〝意味〟を、思ってみて』と、言っているのかもしれません。

私は、障害をもつ人たちと日々を共にしていますがー彼らにとっての「生きること」や「命」というものを、どう考えるべきでしょうか?

生産性としては〝ゼロ〟。
その価値を数値化したら〝マイナス〟となります。
さらに言えばー効率が悪い分、よけい時間が減るのだからー価値が下がることになる。

では、彼らの使った時間の「意味」を考えたら、答えはどうなるでしょうか?

やはり、(価値のみに捕らわれた)世界の〝枠組み〟といったものに問題があるーと、言わざるを得ません。

今日の読書会では、「安定した老後のために?役に立つ本」ではなくーこの『モモ』を今、選んでもらって本当に良かったです。

当会、ほんわかブッククラブの歩みは、生産性とは無縁のもの。しかも、文芸誌まで発行しているのですから。
価値で考えたら、「何でこんな事してるの?」と、なるのでしょうがー。

その中にこそ『モモ』が内包している問題提起が、あるのです。

あの「時間どろぼう」ー灰色の男たちーに盗まれたのは、確かに『時間』なんだけどー人は、その奥にある心をも、奪われたと言える。
今の世の中で失われているのはーまさに『思いやりの心』。
殺伐(さつばつ)としていて、毎日のように殺人やいじめが起こっている。ひどい話です。
そんな中にあって、(統計的に)子どもの反抗やいじめが減っているのは、小学校の先生が頑張ってくれてるから。
教育は、地域としても支えていくべきなのです。心豊かで、良識のある子に育つように。
そのためにも、やはり『読書』は大切。

さいごは、お説教になっちゃいました(笑)。

〈おわりに〉
半年ぶりに参加した読書会ですが、やはり読書にはーもちろん、ひとりで読むのも楽しいけれど、みんなで読む機会も必要だなと感じました。
なぜかと言いますとー。
仮に、ひとりである一冊の本を読んだとします。読後、本の内容について思考を巡らせる時、「道しるべ」となるのは、自分が見聞きした物事であり、それまでに読んだ本からもたらされた視点(視野)でもあります。
これを広く一般的に考えますとー人によって出会う本には個人差がありますからー当然、視点や思考も然り、でしょう。
それこそー千差万別、と言って良いかもしれません。
このように、異なる読書経験を持つ人が集まって、異なる角度からの感想や、思い思いの意見を語る「場」が、サード・プレイス、そのひとつがー「読書会」です。

この機会が、独りの視野を補って余りある、バラエティー豊かな心の時間(カイロス)を創り出すことは、誰もが認める事実でしょう。

読書会の帰りにいつも立ち寄る本屋さんで、立ち話をしたのですがー。
モモは、親御さんが子供に読ませたい本、なのだそう。それは、そうかもしれませんが。
私はむしろ、モモは大人が読むべきではないかとおもいました。

店主さんは、本棚にあるエンデの作品を指して(モモの単行本は、売れたので有りませんでした)ー
「『はてしない物語』は、箱入りの単行本で読むといいですよーこの物語の、はじまりのような感じですね」と、言われーそれには私も、大いに共感したのでした。

本をひも解く時のー儀式のような、高まる気持ち。
大人になっても、いつまでも忘れないでいたいですね。

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。         さやのもゆ

引用文献:『モモ』ミヒャエル・エンデ/作(岩波書店、1976年)






















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