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ラディカル・ミュゼオロジーを読んで:コロナ禍の美術館を考える

コロナ禍において美術館も経営の課題に直面している。
政府の方針で芸術文化施設も自粛要請を受け東京都では2020年3月から4月にかけて59館の美術館・博物館が休館となった。

このような状況でオンラインでの鑑賞体験の模索などさまざまな工夫は行われたものの、美術館はこれまで集客のために行っていたブロックバスター展や企画展を中心に採算を得るというスタイルの経営は難しいことが明らかである。収入の維持には会期延長による予算削減も必要だが、美術館のリソースを活用しながら常設展や教育プログラムを充実させ、地元の観客を真のリピーターとして共に歩む美術館を作るべきとすでに多くの指摘がある。

そんな中、8月4日に開催されたシンポジウム「ニューノーマルにおけるキュレーター、アーティストの新たな視点」で、横浜美術館館長の蔵屋美香氏が述べていた意見が印象に残った。

蔵屋氏は「気候変動やそれに伴う問題、美術館であればブロックバスター展の限界や量から質への転換は、ここ十数年の日本の美術館でも議論が交わされてきた問題である。」と述べた上で、コロナという問題を「商品として消費させないこと」が重要ではないかと述べていた。例えば2013年のベニス・ビエンナーレではEUの問題で揺れ動いていた時期だったため、民主主義を扱う展示が多く、その2015年の同ビエンナーレでは、当時の時世を反映し移民が共通するテーマとなっていた。その2年毎の流行のようなテーマとして感染症の問題を終わりにしないということが重要ではという問いはシンプルながら納得できるものだった。

蔵屋氏の発言から一歩踏み込み、消費ではないテーマをどのように設定し同時代を捉えるか、その中でも収蔵作品をどう活用するかについては、クレア・ビショップ『ラディカル・ミュゼオロジー』における、イスラムフォビアと社会民主主義の失敗を取り上げるアイントホーフェンにあるファン・アッべミュージアム、植民地期への罪悪感とフランコ政権期を扱うマドリッドのソフィア王妃芸術センター、バルカン紛争と社会主義の終結に言及するメテルコヴァ現代美術館の3つの美術館の事例が示唆に富んでいる。アートと歴史の結びつきによって弁証法的な同時代性を組み立てている試みで、その展示は「現在の社会的、政治的切迫感によって突き動かされているもので、それぞれの国民的トラウマによって特徴付けられている」という強い動機づけによる編纂となっている。


例えば、ソフィア王妃芸術センターの重要な収蔵作品《ゲルニカ》は、スペイン内戦期のプロパガンダポスター、雑誌、戦争画などに囲まれ、正面にはスペイン内戦のドキュメンタリー映画が設置されている。そのことで《ゲルニカ》は「形式的な革新性や並外れた才能」のような美術史の文脈での評価よりも「社会的で政治的な歴史のなかに位置づけられる」。《ゲルニカ》以外の常設展でも名作群と映画や文献を並置させ、スペインの「植民地主義的過去を自己批判的に表象することを採用」している。

蔵屋さんの発言は一過性の流行や危機感からの行動ではない独自の指針の重要性が必要であると換言できると思う。またビショップの論考も単なる収蔵作品の活用法の提案、アーカイブ展示の礼賛や美術館制度批判ではない。むしろ各館が歴史的・社会的な背景を踏まえたその館固有のメッセージを、活動を通じて発信すべきと集約できる。さらにその活動が今後加わる未来のコレクションや展覧会を見据えるものだとし、未来も含んだ複数の時間が同時に存在することが美術館の本質だと述べている。


そのように考えると、日本の公立美術館がこのパラダイムシフトを好機と捉え、美術館が掲げる館独自のミッションを見直し、充実・細分化させ、それに伴うメッセージの発信と運営を意識的に行うことに期待したい。美術館が政治的な立場を表明することは難しいと考えがちだが、美術館だからこそできるラディカルさをビショップの論考では提示しており実現の道筋は明るい。

そこでキュレーターとはなんなのか、ということを再考する必要はある。そんな風に編集しまくって、でもやっぱり、本質は作品をよく見せるということに尽きると思うわけなので。


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