見出し画像

怖さを忘れないで

以前、哲学カフェで「怖いもの」について語ったのだったか、最初に参加者全員が、自分の怖いものを挙げた。そこで私が言ったのが、以下のツイートにあるようなことだ。

「装置から出た水で大きな水溜まりができている道路を車がスピードを落とさず通り過ぎる」のが私は怖い。だが、ツイート内でも書いているように、話したその場では、この意見を理解し、同意の肯きをしてくれた人はいなかったように思う。そしてこのツイートにも特に反応はない。

それは多分、多くの人が、車を運転する人間であるからだろう。車に乗っている時に、運転者は歩行者の存在には注意するだろう。しかし、道路上に大きな水溜まりがあったとして、そこが車で通れると判断したならば、車が通ることによる水はねが起きることまでは、そしてそれが通行人にかかることまでは想定しないのではないか。そこまで考えていられないと思う。

私は運転免許証を取得しなかったので、車という物に馴染みがない。車に乗せてもらうことはある。なぜ皆、こうもスムーズに運転ができるのか、乗っていてもいつも不思議である。自分が身をもって体験していないことなので運転という行為がよくわからないのだ。歩行者の立場から車を見ていて、明らかに下手な運転や危ない運転の車があると、そうだよな、運転は難しいはずだよなと感じたりもする。

「水音で車の速さが可聴化される」と書いているが、これは、当たり前だと感じられているであろう車の速度が、通行する際に大きな水音が付くことによって、実はかなり速くて危ない、と感じやすくなるということだ。しかし水音がしても、そういうものだと思われる方のほうが多いのかもしれない。

これだけ車が怖いのは、私が歩行者であるからに他ならない。事故にあったことはギリギリないが(車を避けようとして川に落ちたことならあるが)、歩道が分かれていない道をスピードを落とさずに走る車や、横断歩道を歩行していても止まってくれない車など、えっ、と思うことはよくある。

車がない生活というのは考えられないし、私も車であるバスが走ってくれないと困る。しかし、実は怖い物を扱っているということは、忘れないでほしいなと、水溜まりだらけの道を疾走する車を見て、水音を聞く度に思うのだった。そして、車だけではなくて、世界にはそんな、慣れてしまっているけど実は怖いものがたくさんあるな、と思うのだった。

お気持ち有り難く思います。サポートは自費出版やイベント参加などの費用に充てます。