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初めての一人カラオケ

「今年やりたい10のこと」の一つに「一人カラオケをする」と挙げた。

それを今日、実行した。思い立ったが吉日である。だが初めてのことなので、心配でいろいろ検索した。行こうとしているお店のサイトを熟読した。お店のアプリがあることを知ったが、あらかじめ入れておくよりも、お店で入れたほうがいいのかもしれない。料金がアプリに載っているようなのでわからないが、平日の昼間なのでそれほど高くはないだろう。

朝9時オープンの店に、9時過ぎくらいに着くように家を出た。入店すると、受け付けには2組が並んでいた。順番が来たので、初めてであることを伝えると、アプリのインストールを促された。私がアプリを入れている間にも、2組の来客があった。盛況なのだろうか。普段を知らないのでわからない。

アプリを入れて会員登録を済ませ、説明を受けて、部屋の番号が印された伝票をもらう。部屋に入る。一人での利用にちょうどよさげなコンパクトな室内だった。勝手がわからないので電灯の付け方もわからず、薄暗い部屋でしばし戸惑った。押すスイッチではなく、回すスイッチだった。適度に明るくする。

選曲にタブレットのような機械を使うことはさすがに知っている。最初にはこれを歌おう、と思っていた曲を検索して、入れた。画面に予約できた旨が表示され、伴奏がなり始めた。マイクを持ち、歌いだす。

私の歌は、私が想像していたよりずっと、下手だった。

私が「一人カラオケ」をやりたいこととして何年も挙げ続けながら実現できなかったのは、自分の歌が下手だという現実を突き付けられるのが嫌だったからだろう。歌わなければ、上手か下手かはっきりしない状態のまま、もしかして上手かも、というほうに期待を持っておくことができる。

でも、現実を直視しない自分を、弱いと思ったのだ。いい加減、はっきりさせておきたい気持ちになったのだ。

下手な自分を認識させられるのはつらかった。一生懸命歌おうとするのに、まず声が出ない。かすれたような声が出ても、音程が取れない。メロディについていけない。リズムに乗れない。息苦しくなる。頭の中で鳴っている、アーティストの素晴らしい歌声とは天と地ほどの差がある。楽曲の良さを損なっている自分の汚い歌が申し訳なく思えるほどだった。

そこで止めて帰ってもよかったのかもしれない。でも帰れなかったのは、時間が来ていないのに帰るのは変なのではという、見栄である。私は思い付いた順にアーティストを検索し、表示された中から難易度が低いと思われる曲を選んだ。下手な歌を歌い続けた。カラオケ店では歌声が漏れ聞こえてしまうこともある。他の部屋の人に、下手な人がいるよと笑われているかもしれない。恥ずかしいが、帰るのも恥ずかしい。

私は開き直った。笑われてもいい。漏れ聞こえていたとして、それが私の歌声と特定はできないはずだ。歌い続けた。少しでもましに歌えるように頑張った。だが、声が出ている感覚にはなれなかった。つらく悲しい時間だった。好きな歌を楽しく歌いたかった。

だけど、一人カラオケに挑戦してみたことは、よかったと思う。自分がどんな状態なのかわかったことはもちろんだが、改めて、歌が上手であることのすごさを思うことができた。歌い手さんにとってはあたりまえなのかもしれないが、歌が下手な私からすると、信じられないことをやってのけているのだ。

歌う才能について強く意識させられると共に、歌う努力についても考えさせられた。最初はうまいとは思えなかった歌い手さんが、しばらくすると上達していたりすることがある。その裏にはどれだけの練習量と苦労があったことだろう。

そんな才能と努力の結果の歌声を、私は聴かせてもらっている。それは大変にありがたいことなのだ。

歌が下手なことは認識した。これからどうするかはわからない。無理に歌わなくてもいいと思っている。でも、悔しい気持ちもある。しかし、うまくなろうとするならば、相当の練習をしなければならないだろう。それが今の自分にできるかどうかだ。ひとまず、これでカラオケ店には臆せず入れるようになった。その進歩は称えてもいいだろう。


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