三度目の殺人

『三度目の殺人』彼は器か、人間か。

難解な映画である。

何がというと、役所広司演じる犯人の人物像を理解することがとにかく難しいし、答えが出ない。人によって解釈が異なる、考える余地を残す作品は嫌いではないが、それにしたって考えるのにもう少しヒントが欲しいとも思う。

三度目の殺人を犯した彼は、器か人間か。

器(うつわ)=その時代・その地域で関わった人々が抱える鬱憤や闇を自らの中に受け入れているだけ。器である彼自身は虚無であるという解釈。受動的。

人間=同情によるものであれ、怒りによるものであれ、殺人行為は個人的な感情の発露。心を持った人間であるという解釈。殺人鬼もこれに含む。能動的。

『三度目の殺人』という作品タイトルのわりに、一度目・二度目の殺人についての描写がかなり少ないのも、理解を難しくしている原因だと思うのだが、それも是枝監督の狙い通りなのだろうか。

冒頭でも述べたが、この映画はヒントが少ない。犯人について、殺人以外のエピソードといえば、「被害者の娘と雪だるまを作っていた(以降、彼女と親しくなった)」「飼っていたカナリアを殺した(一羽は逃がした)」ということくらい。他は一度目・二度目の殺人を捜査した警官に聞いても、「よく分からない」だし、職場の仲間に聞いても「普通」だし、大家さんに聞いても「礼儀正しく良い人だった」という何の特徴もない、印象に残らないものばかり。足の悪い娘がいるという話はあったが、家族についてはあれやこれやとエピソードをかみ砕いて考える材料がかなり乏しい。

だが、この作品は昨今流行りの小説や漫画の映画化ではなく、映画オリジナル作品である。ということは、この作品は監督が気概を持って作り、伝えたい独自のメッセージが色濃く反映されているはずだと考え直す。

その監督のメッセージが「結局、人間って良く分からないよね」というものであるならば、もう考えるのは無意味なわけで、俳優陣の鬼気迫る演技や雪景色の映像美等、映画の余韻を楽しむほか無い訳だが、一応、それ以外のメッセージ性があると仮定する。

その場合、やはり『三度目の殺人』というタイトルに意味があるように思う。

一度目や二度目ではない、三度目。正直、一度目・二度目の事件についての詳細が不明だったので、観終わった直後に感じた一番の疑問点は「『三度目』と回数をタイトルにつける必要はあるのか?」ということだった。たとえこれが初犯だったとしても、「器か人間か」の余韻は残せる。だが、あえて三度目としているところに意図を汲み取るならば、「真意がよくわからない殺人を犯したのは『三度目』」という事であり、制作者側としては「犯人は器ですよ」というメッセージの方を重視しているのではないかという結論に辿り着く。そうであるならば、犯人個人の生い立ちや家族関係、性格等を描く必要は無いとも言える。

彼個人は虚無であり、周囲の人々の感情を映しているだけなのだから。

そんな結論をいったん得たところで、改めて公式HPを見てみた。その中にあった煽りの一文。「その獣は、にんげんの目をしていました。」

んんっ!?獣か……。これは出した結論が揺らぐ、かなり能動的なワードです、ありがとうございます(?)。

これだけ書いておいてナンですが、私はまた迷路に入り込みそうなので、これくらいで考えるのを止めることに致します。役所広司と福山雅治の真剣勝負(接見)は息が詰まる演技だし、斉藤由貴の「お父さんだけが悪い訳じゃないでしょ」は最高に気持ち悪くて真に迫っているし、役者陣の演技は見どころがたくさん。まだまだ公開中のようなので、気になる方はご覧になってそれぞれの結論を考えてみてくださいませ!

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