模写や写経をする本当の意味

イラストなら模写、小説なら写経(小説を書き写すこと)が最初の訓練の方法としてよく挙げられます。
しかしこういう訓練に対して、「自分のオリジナリティがなくなるのではないか?」「ゼロから生み出さないと意味がないのではないか?」という疑問が浮かびます。

では模写や写経は何のためにするのでしょうか。

2つの意味があります。

1つ目は、「視点を獲得すること」。
2つ目は、「どれだけ模倣しようとしても出てしまう、“自分の個性”を見つけること」。

「視点を獲得すること」というのは、「作者にとって世界がどう見えているか」を学ぶということです。
何かを描くということは、その人には世界がそう見えている、ということを意味します。その人の空想の中にはその光景が広がっているのです。

そしてその「視点」「ものの見方」を獲得することで、世界が違った風に見えるようになります。

単に目の書き方を真似する、風景描写の語彙を真似する、ではなく、その先にある「どうしてそういう風に目を描いたのか」「どうしてそういう語彙で風景を表現したのか」を学び取るのです。

例えば目の書き方がとても美しいイラストレーターが居たとします。
その絵を模写して得るべきなのは、目の描き方ではなく、「目ってこんなに美しいものだったんだ」という気づきです。

そういうことを繰り返して、視点の引き出しを増やしていきます。
そうやって獲得してきた視点から、自分が表現したいものを見るときに、いろんな見方をして表現の可能性を広げることができるようになります。

アイデアの本質は組み合わせです。

模写で他人の視点を獲得することは、自分の創作活動が「ゼロから生み出す」という行為ではなくなるという心配をする方がいますが、そもそもゼロから生み出していることはほとんどありません。

それよりも、いかに引き出しを増やし、「新しい組み合わせを見つけるか」に注力してください。あなたがやっていることの本質はそれのはずです。

2つ目の意味「どれだけ模倣しようとしても出てしまう、“自分の個性”を見つけること」というのは、絵の模写をやってみればわかります。

完璧な模写というのは本当に難しく、どうしても全体のバランスが違ったり、線の強弱が違ったりします。
そしてその「どうしても寄せられなかった部分」こそがあなたの個性なのです。

模倣するというのは、自分の個性を殺すことではありません。「あの人の絵柄になってしまう」のは模倣の間違った使い方です。
むしろ逆で、模倣しようとしてもどうしても出てしまう「自分」に注目して、自分の個性を炙り出すための行為なのです。

もちろん模倣して取り入れたい部分を取り入れるのはいいことです。しかしそれだけではなく、模倣しようとしてもできなかった部分を通して、自分の個性を見つめ直すことができる、ここに価値があります。
「自分はどうしてもこうなってしまう」、それこそがあなたが表現すべき「自分」であり、「個性」です。それを見つけ出すための行為が模写であり写経なのです。

漫然と書き写すのではなく、「この人の視点を獲得する」「自分の個性を見つけ出す」ためだと思って模写や写経をしてみてください。きっと何かを得ることができます。

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