見出し画像

「言葉がある世界」と「言葉がない世界」の狭間で、いま思うこと

大人になっても紙とペンがあれば、私は落書きをする。たとえば、わけもなく□を描いてることがよくある。

学生の頃は授業を聴きながら、ノートの隅に立体的な□を書いては色を塗っていた。今でもメモを取る紙に□を重ね描きしては、空白を埋めていることもある。

ただなんとなく描きたくなる□は、たぶん心もとないときや心を落ち着かせたいときに描いているのでは、と思った。

カクカクしたカタチは頑丈で壊れにくそうで、安心感がある。「大丈夫」って自分に言いたいのかもしれない。

言葉のない世界ではこうやって、いろんな想像が浮かぶからおもしろい。

美術館に行って絵を見ながら、あーでもない、こーでもないと考えや感じたことを巡らせるのも好きだ。

何も決めつけず優しく存在している世界に浸りながら、頭と心の中ではあちこちに飛び回っている気分になれる。

日常の決め事やしがらみから抜け出して、心を解放していく言葉のない世界に私はいつも癒されきた。

一方で、「言葉がある世界」は「言葉のない世界」とは真逆の世界だと私は思う。言葉にすることで物事や人の輪郭がはっきりとしてくるから、「断定していく世界」に感じている。

たとえば、ふと見上げた街角の広告のキャッチコピーにハッとするのは、心の奥底にある気持ちをとらえて、浮き彫りにされたからかもしれない。

うまく言えないことを代弁してもらえたら、気持ちが楽になる。不安になるのはどうすればいいかわからないからで、気持ちが明確に言葉になれば次に進める気がしてくる。

生まれたばかりの赤ちゃんは、名付けられた瞬間から「私は●●の人です」と主張しているみたいに見えて、なんだか頼もしい。

そして、言葉をつなげて文章を作る作業は、目に見えない心にある感情を言葉を使ってカタチにする作業で、自分や周りの物事を知っていく成長の過程とも思う。

この文章を書いている最中で、私は私の考えや想いを知っていく。一つの文章ができたとき、大げさな表現かもしれないけど悟りを開いたような気持ちになれる。

いろいろ書き連ねてきたけど、ここでまとめると、

私にとって言葉がない世界は「広げていく世界」「あっちにもこっちにも、いろいろあるよ、どこでも行けるよ!」と教えてくれる世界で、

言葉のある世界は「意味を明らかにして制限していく世界」「物事を定めてカタチをつくる世界」といったところかな。

そして、「言葉がない世界」と「言葉がある世界」をいったりきたりしながらこの世を知り、感じとり、何かを表現していくことは一連の創作活動だとも思う。

誰の役に立つかもわからないこの文章を書いて、私は何かをはっきりさせようとしている。何かカタチを作ろうとしている。そのカタチは誰かを傷つけるものではなく、必ず優しいものでありたい。

まだ何をカタチにしたいのか明確にはなっていないけど、一つ言えるのは「言葉がない世界」「言葉がある世界」のどちらにも転がれる私はきっと、自由な私でいられるはずだ。

まだまだ深掘りができそうだけど、今日はこの辺で。

もしこのつたない文章を読んでくださった方がいたなら、本当にありがとうございました。

カタチを作っては壊して、広げては縮めて、そんなことを繰り返しながらいつか誰かの役に立てるような、誰かの心を温めるようなそんな文章を書こうと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?