数秘33のあれこれー私の恋愛依存のはなし
私は恋愛依存症ですが、その捉え方によっては見方が変わっていきます。
私は小さい頃から恋愛が好きです。
おませだった私は、保育園の時に両思いの男の子ができて、それを父に話したら、「じゃあその子に守ってもらえるからいいね」と言われ、当時「へぇ~」とぼーっと思ったことを覚えています。
そして大きくなるにつれ、恋人ができると、その恋人は本当に守ってくれるようになりました。
私は精神のある部分が3歳児で、世の中に出ると不安なことが多かったのですが、私と付き合う人は、「オールマイティ」という言葉で表せるくらい何でもできる人が多かったです。料理、仕事、何でもです。
私は彼らから、生活のあらゆる面に対して「こうしなさい」と言われることが多く、特に自分の意見もなかったので嫌々ながらもそれに素直に従うにつれ、私の中で、「恋人がいないと生きていけない」というイメージが出来上がりました。それからは常になんでも恋人に聞いて暮らす、という人生になりました。
そうして「何でも人の言う通りに生きればいい」と思いのほほんと生きていたら、ある人生の時期に変化が起き、私は別の生き方をしなければならなくなりました。
その生き方とは「自分で全てを決めて動く」ということです。
初めは意味がわからず、「これからどうやって生きればいいの??」と本気で不安になり、恐怖に打ちのめされました。社会に対してはよくわからないことが多いですし、今まで人の意見があって生きてこれたのに、それが全てなくなり、喪失感でいっぱいで、右往左往して、完全に精神の迷子でした。
毎日不安だし、心は痛いし、元気は出ないし、将来に希望は持てないし、それまで自分を幸せにするであろう存在した条件が、目に見える形で手元にないため、それまでに味わったことのない恐怖感でいっぱいでした。
しかし、その恐怖を味わいながらも、不思議と心の中で、とても小さく静かな、ある感覚がありました。その感覚を言葉で表すとしたら、
「(どうせ立ち上がる)」です。
これは、実は、今まで生きてきてどの瞬間もそうでしたし、そしてこれからもそうですが、私がなぜだか理由もなく奥底で感覚としてわかっていることがあります。
一匹残らず生命は、いつか絶対に立ち上がる。
立ち上がるというのは、寝転んでいた状態から起き上がる、下にいた状態が上へ向かっていく、という感じです。
それは多分、その状態の私より上の私、またはよりクリアな私からの「まぁ、大丈夫でしょ」という力の抜けた感覚なのかもしせませんが、それを感じた瞬間「あぁ、やっぱりね」とうっすら思ったことを覚えています。人はどんなに辛くても、乗り越える力を持ってるんだな、と今は思います。
そんな訳で、全部を自分で決めて生きる、という人生になりましたが、それをする前に、まず「何ができて、何が出来ないなのか」を自分で肯定する事が必要でした。
例えばわたしは料理が嫌いですが、生きていくためには何かしら食べる必要があります。お惣菜を買ってくるのか、外食するのか。そのどれでもいいのですが、そこに今度は経済的な問題が出てきます。買う、外食、自炊、そのどれを取っても、毎月の生活費の中でやり繰りしないといけない。
わたしは計算も節約も苦手なのだけれど、今の状態がどうであれ、可能な範囲でやりくりしなければなりません。これを読んでる方からすれば「それはそうでしょ」と思われるかもしれませんが、当時の私は自分という「人間」を一からやり直し始めたところでしたので、自分という物体をできるだけ肯定的に捉えるよう意識するトレーニングがが必要でした。
それをしているうちに、あることを疑問に思い始めます。「なんのためにこんなに試行錯誤しているのだろう」。そして次に思ったのは、「目標が欲しい」ということでした。そしてその目標は何のために設定するのか。何に基づいているのか、ということです。
このように深掘りしていくにつれ、さらにある疑問が浮かびます。「どういう自分の在り方がいいか」というものです。それがいずれ、自分という個性で物事を表現したい、という欲求につながることになります。
ちなみにその「どういう自分の在り方がいいか」という疑問の答えのヒントが見つかる場所があります。その視点で見れる場所は、これは正確ないい方ではないかもしれませんが、「自分の中」にあります。もっと正確さに近づく努力をするなら、「大いなる存在」や「源」や「神聖な部分」といった、ちょっとスピリチュアル系のキーワードで表現されるところです。ここが、私という個性で自由に人生を遊んでいいよ、と許可してくれるところなのです。
その視点で見るものはとてもシンプルで、静かで、熱くて、柔らかくて優しくてユーモアたっぷりな、実は私たちが日常の中でいつも目にして心で味わってきたものだったりします。
ここにたどり着いたら、自分という人を定義してテーマを「自分で決め」、表現する仕事の仕方を試していく、チャレンジしていく、という方向になるかと思います。その際に、毎日の過ごし方、時間の使い方、貯金をしたい、などの「やりたいこと」が自然と浮かび上がってきます。
この記事のテーマは私の恋愛依存の話ですが、依存状態を「自分を大事にしてないダメな人」と見て終わるのか、それを例えば「そのくらい何かやりたいことがある」と見るのかで人生の中で見えるものが変わってきます。
私の場合は、パートナーと二人で、お互いが精神的に自立していてお互いの存在によって安心感を得られる中で生きていくこと、がやりたいことです。依存状態は、自分史上最高のパートナーシップを味わいたい、という欲求がとある形を纏ったもの、だと思っています。
赤の他人との生活は、その生活を維持するための努力を、お互いになすりつけあっている状態では大変になってしまうと思います。それは嫌なので、それぞれができるだけ自分自身の仕事がしやすいような感覚を、素直に表現していても苦じゃない相性であることは必要だと思います。関係を維持していく中で、お互いの存在によって軽やかになれる努力をお互いが認め合える関係が理想です。
それにしても依存状態は力が強く、自分だけの力ではどうにも苦しすぎることがあるため、他者に頼って少しでも力が抜けれたらいいですし、何としても自分を救おうとする足掻きは、生きている間にやりたいことの一つなのでしょう。
色んな執着に対してよく「手放しましょう」と言われますが、「手放そう!」と思っても考えてしまうのが人間だと思いますし、もうこうなったらとことんやって「もういいや」となるのも自然かな、とも思います。そして、手放す時期も気づかないかもしれませんが自分で選んでいると思います。
ダラダラ書いてきましたが、ぶっちゃけ言いたいのは、もう、恋愛依存で苦しむことに飽きました、ということです(笑)
恋愛依存による感情の波がどういうものか知っていて、これからもチラチラ顔を見せるかもしれませんが、これからは、「自分の好き」の方を大切に味わってみたい、という好奇心の方が強いです。この好奇心を考えるとき、解放感を感じるので、「あぁ、良い方へ向かっているんだな」と安心できます。
その新しい面白いものを味わえるためにまた明日が来るのなら、生きているのも悪くないかな、と思います。
そんなようなことを、ご飯を食べたり、コーヒーを飲んだりしながらぼーっと考えて、「生きるって、忙しいなぁ。コーヒー美味しいなぁ」と、思う一日でした。
お読みいただき、ありがとうございました。何かの参考になれれば嬉しいです。
sayaka
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