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永遠の思春期

今日は少し疲れたので勉強は早めに切り上げ、久々にnoteの記事でも書こうと思い、書き途中の記事を一つ一つ読んでいた。

どれも、今日の私の気分にはそぐわない内容だった。

「やっぱり今日は満足のいくnoteの記事は書けないかもな」なんて思った時に目に止まったのが「永遠の思春期」というタイトルだった。

記事を見てみると、白紙だった。

タイトルだけ考えて、そのままにしたものだったみたい。

でも、「永遠の思春期」ってなんだか、自分を映し出している言葉のようで、とても惹かれる。

そうなんだよね、私が博士課程にいるのも思春期の延長なんだよな。なんて思いながら、私は今文章を書き始めている。

思春期の頃

思春期という言葉を聞くと、どのようなことが思い浮かぶだろうか。

誰もが経験する思春期という時期は、とても複雑で、きっとどの人にとっても人生にとって大切な時間だったに違いない。

子どもっぽさが残る自分と、大人にならなきゃいけない自分の間に挟まれて、なんだかもどかしい。

この先、自分はどうやって生きていこう?自分とは何者なんだろう?なんて、漠然とした不安がいっぱいで、なんだかイライラしてしまう。

規則とか、規範とか、こうあるべきだ!という当然とされているものに、「なんでなんだよ!」「自分は自分なんだ!」なんて、反発心ばっかりが芽生えてきて、素直に受け入れることもできない。

自分の中の葛藤、社会や家族との葛藤、色々な葛藤の中で、人は多くのことを学んでいく。

これが大人への一歩と言われる思春期であろう。

でも、私はまだ思春期の真っ只中なのかもしれない。

昔の私と今の私

正直、私は昔と今でほとんど何も変わっていないと思う。だからこそ、私は今も思春期の真っ只中のように感じる。そして、私はこれから先もずっと思春期という時間で時が止まっていくような気がする。

でも、私は思春期であることに何にも問題性は感じていない。

おそらく、私の家族から言わせると、今の私は過去の私と違って、心ない言葉を使うこともなくなり、思春期を終えたしっかりとした成人であると思ってくれているかもしれない。

たしかにその通りである。

昔の私は、何か周囲や規範に対する疑問があれば、なんだか不思議とイライラし、心無い言葉を使ってしまっていたようにも感じる。

でも根本的に、今と昔の私の疑問は何も変わっていない。

変わったのは、その表現方法な気がする。

当時の私は感情に身を任せ自分の疑問から発生するイライラをネガティブな形で表現することが多かったが、今の私は当時疑問に思っていたようなことを、常に考え、それを深く調べ、文章にまとめているような作業をしている。

正直、この行為は私にとって、とてもスッキリする行為なのである。

「当たり前だから」とか「ルールだから」とか「前からそうだったから」とか、私の「なぜ?」に対して納得のいかなかい根拠を並べられても、私は満足がいかなかった人間だったから、その私のなぜについて自分で考える方法を学べたのは、ある意味で幸せだったと思う。

永遠の思春期

思春期をひきづっていると言えば、なんだかネガティブな印象を持たれるかも知れないが、私からすれば思春期の何が悪いのだろうか。

思春期の頃に芽生える純粋な疑問って、大人になればなるほど、うやむやにして、目を背けないようにしているだけのものだったりもすると思う。そして、目を背けいないという行為を続ければ続けるほど、疑問にさえも気づかなくなっていくものなのではないだろうか。

もちろん、人の心を顧みずイライラを発散するために暴言を吐くことは、よくないし、感情に任せてルールを破ることも良くはない。

でも、純粋に芽生えてくる疑問に対して、なぜダメなのか?ということを自分が納得するまで考えようとする行為は、他者に迷惑をかけるわけでもない
のだから、いつまでも思春期を楽しんでいてもいいのではないかとも思うのである。

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